廊下は静かだった。
人の気配もない。
照明の白さだけが、やけに残る。
⸻
足音がひとつ。
ゆっくり近づいてくる。
リョウガだった。
忘れ物を取りに戻ってきただけ。
それだけのはずだった。
⸻
角を曲がる。
その先に、
違和感。
⸻
「……え」
視界の端に、何かがある。
壁にもたれて、
崩れるように座っている人影。
一瞬で分かる。
「……アロハ?」
反応はない。
近づく。
呼吸が浅い。
顔色が悪い。
(やっぱり)
驚きより先に、
納得がくる。
「おいっ…」
しゃがむ。
肩に軽く触れる。
「アロハ、聞こえてるか」
少しだけ、反応。
でも意識は薄い。
「……っ、は……」
呼吸だけが荒い。
(これ、一人でやってたのか)
小さく息を吐く。
「いいから、ゆっくり」
低い声で言う。
「吸って……吐いて」
前にもあった。
似たようなこと。
だから分かる。
「ほら、大丈夫だから」
落ち着かせるように。
少しずつ、
呼吸が戻る。
でも。
完全じゃない。
「……立てるか」
声をかける。
アロハはわずかに首を振る。
(だよな)
無理に立たせない。
そのまま少しだけ待つ。
「……運ぶぞ」
静かに言う。
軽く身体を支える。
思ったより、軽い。
(ちゃんと食ってんのかよ)
そんなことを思いながら、
ゆっくり歩く。
誰にも見られないように。
静かに。
そのとき。
「……っ」
アロハの指が、
わずかにリョウガの服を掴む。
弱い力。
でも、
はっきりとした動き。
リョウガが一瞬だけ止まる。
「……大丈夫」
そう言う。
誰に向けてか分からないまま。
アロハの呼吸は、
さっきより落ち着いてきている。
でも。
身体の力が、
ほとんど残っていない。
支えていないと、
そのまま崩れそうなほどに。
「無理すんな」
小さく言う。
返事はない。
ただ、
呼吸だけが、
かすかに続いている。
数歩、進む。
その途中で。
アロハの身体が、
ふっと軽くなる。
力が抜ける。
「……おい!」
呼びかける。
反応はない。
目は閉じたまま。
呼吸はある。
でも、
完全に意識が落ちている。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
(ここまでか)
どこか、
予想していたみたいに。
「ほんと、分かりやすいな」
ぼそっと呟く。
責めるでもなく、
呆れるでもなく。
ただ、
いつもの延長みたいに。
そのまま、
少しだけ抱え直す。
できるだけ揺らさないように。
廊下を進む。
足音だけが、
一定のリズムで響く。
遠くで、
誰かの話し声がする。
でも、
ここには届かない。
まるで、
切り離されたみたいに静かだった。
アロハの頭が、
わずかに肩にもたれる。
その重さを、
ちゃんと感じる。
(……一人で抱えすぎだろ)
思う。
でも、
口には出さない。
代わりに、
少しだけ腕に力を入れる。
落とさないように。
離さないように。
「……あとちょっと」
小さく声をかける。
届いてるかは分からない。
でも、
それでも言う。
静かな廊下を抜けて、
扉の前に立つ。
足で軽く開ける。
中は暗い。
仮眠室。
そっと中に入る。
ベッドに近づいて、
ゆっくりと下ろす。
できるだけ、
衝撃を与えないように。
「……」
少しだけ、
様子を見る。
呼吸は、
落ち着いている。
顔色も、
さっきよりはまし。
「……大丈夫かよ」
小さく呟く。
返事はない。
当たり前だけど。
少しだけ間。
その場から離れようとして、
やめる。
椅子を引いて、
ベッドの横に座る。
スマホを出す。
画面は開くけど、
何も見ていない。
ただ、
そこにいる。
それだけ。
しばらくして。
アロハの呼吸が、
さらにゆっくりになる。
完全に、
眠りに落ちたみたいに。
リョウガは、
小さく息を吐く。
「……まぁ」
ぽつりと。
「今回は、ちゃんと倒れたな」
少しだけ、
力の抜けた声。
それから、
ほんのわずかに笑う。
「その方がいいわ」
無理して立ってるより、
よっぽど。
部屋は静かだった。
でも、
さっきまでの苦しさは、
もうそこにはない。
ただ、
ゆっくりした時間だけが流れていた。
リョウガは、
背もたれに体を預ける。
視線は、
ベッドの方に向けたまま。
何も言わない。
でも、
ちゃんとそこにいる。
それだけで、
十分だった。











編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!