第75話

続き
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2026/03/01 11:13 更新
翌朝。
目覚ましの音が鳴る前に、目が覚めた。


息を吸うと胸のあたりが少し熱い。

枕元のスマホを手に取る。


画面を点けると、
昨日のままのグループLINEが表示された。

アロハ「帰る前に温泉もう一回入りたい!!」
タクヤ「お前は入りすぎだバカww」



(今日にはみんな帰ってくるんだな。)


そう思うと、
少しだけ安心して、少しだけ遠く感じた。


熱は……たぶん、下がっている。


そう思いたかった。
体温計を見る勇気がなくて、
とりあえずシャワーを浴びた。


鏡の前に立つ。
頬が少し白く、唇の色が悪い。



でも笑えば、なんとか見える。
「いける。今日くらい、平気だろ。」
そう口に出してみた。
声が掠れて、自分の言葉が遠くに響いた。




台本を持って玄関を出る。
扉を閉めた瞬間、
湿った空気が肌にまとわりつく。
曇り空。
一滴、頬に冷たいものが落ちた。



「……雨?」
見上げた空は、鈍い灰色。
傘立てを見たけど、空っぽ。



(ヤバっ、ま、もうすぐ駅だし、いけるか。)


そう言い聞かせて、
フードをかぶり、駆け出した。



アスファルトの匂い。
水の粒が跳ねて、靴の中に入り込む。
すぐに靴下がぐっしょり濡れた。


風が強く、フードが外れて髪が顔に張りつく。
頬を伝う雨が冷たい。
だけど、その冷たさが気持ちいいと感じた。




電車に乗る。
ドアが閉まり、
マスクの中が、息で湿って熱い。
息を吸うたび、胸がきゅっと締めつけられる。



車内のアナウンスが遠くに聞こえる。
イヤホンをして音楽を流しても、
歌詞が耳に入ってこない。
世界が、ガラス越しに見えるようだった。



降りる駅が近づく。
立ち上がった瞬間、
視界がふっと白くなった。


でも誰も気づかない。
彼は、いつものように笑って降りた。


駅の階段を上がる。
地上に出ると、雨脚が強くなっていた。
小さな水たまりに映る信号の赤が、にじんで揺れる。


マネージャーに「着きました」とLINEを送る。


ハルは一度深呼吸して、
スタジオの扉を開けた。
湿った空気と照明の熱が混ざった匂いが、
一気に身体に押し寄せた。

「おはようございます!」
声を出すと、
喉の奥で何かが擦れた。

外の雨音は、
スタジオの壁に打たれて遠く響いていた。





撮影中


「ハルくん、もう少し笑顔でいける?」
カメラマンの声に、
ハルは“はい!”と返した。
笑う。


テイクを繰り返すたびに、
喉の奥が乾いていった。

水を飲むたびに、体が冷える。
それでも、
「もう一回いけます!」と笑った。

周囲のスタッフは忙しそうで、
誰もハルの異変に気づかない。

撮影が進行していく。
モニターに映る自分の笑顔が、
どこか作りものみたいに見えた。



昼を過ぎると、
熱が上がっていくのが分かった。


体の芯がじんじんして、
光が目に刺さる。
ふとした瞬間に、足がふらつく。


「ハルくん?大丈夫?」
マネージャーが小さく声をかける。


ハルは笑って答えた。
「大丈夫です!昨日休んだんで!」


「休めたならよかった!」
その言葉を信じて、
マネージャーは別のスタッフのもとへ行った。


ハルは深呼吸をして、
何もなかったように次のシーンへ入る。






夕方。
外はどしゃ降りだった。
ガラス越しに、
雨の筋が光を歪ませている。
雷が遠くで鳴った。


撮影がすべて終わった頃には、
視界が滲んでいた。 


スタッフが「お疲れ様!」と声をかける。
ハルは笑って手を振った。
その笑顔が、もう体のどこにも届いていなかった。


マネージャーが振り返って言った。
「ちょっと取引先と話してくるから、
 先に車で待ってて。」


「了解です!」

その声も掠れていた。
ハルは小さく頷いて、
傘のないまま外に出た。


駐車場までは10m程。
「いけるか。」

車に向かって小走りで向かう。



雨は、昼よりも冷たかった。
頭の上に降り注ぐ水の粒が、
体温を奪っていく。
髪が頬に張りつく。
シャツの中に冷たい水が入り、
体がびくっと震えた。



駐車場の照明が白く光る。
アスファルトに反射して、
足元の水たまりが星みたいに光っていた。
靴の中の水が、歩くたびに鳴る。



マネージャーのいつもの車が見える。
あと5メートル。

その時
(……あ…れ…?)


雨の音が耳を埋める。
息が浅い。
喉が焼ける。
心臓の鼓動がどんどん速くなる。


(いやいや、もう少し、……)


目の前が滲んだ。
アスファルトの模様が歪む。
呼吸が吸えない。
地面が、やけに遠くに見えた。


(グラッ……ッ)




大きく足元が崩れ、
傘のないまま空を仰ぐ。



雨が顔を打つ。
冷たいはずなのに、
なぜかあたたかかった。



どんどん世界がぐにゃりと曲がる。
熱い体温が冷えていく感覚で気持ち良さを感じて
そのまま闇に吸い込まれた。



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