しばらくして、たどり着いたのは、
静かな林に囲まれた庵ー というには
少々大きい一軒家であった。
名家の当主が暮らしているとは、
にわかには信じられないほど質素な
佇まいの建物であったが、近くに停められた自動車が
ここの住人の財力を端的に示している。
自動車は基本的に輸入品なので、
ただの庶民には買えない。
であれば、やはりここが目黒蓮の住まいで
間違いないのだろう。
おそるおそる戸を叩いてみれば、すぐに応答があった
ひょっこりと顔を出したのは、
優しい雰囲気の大柄な青年だった。
格好から見て、おそらくこの家の使用人であろう。
主人が冷酷無慈悲ならば、使える使用人も、
もっと人形のように淡々とした冷たい人物だろうと
想像していた亮平は、ふわりと笑った青年が
あまりにも柔らかい口調と態度なので、
少し戸惑ってしまう。
青年にうながされるまま、
亮平は目黒家に足を踏み入れた。
家の中は阿部家の屋敷と比べるととても狭い。
木造で、築年数はあまり重ねていなそうな
傷みの少ない家だ。入ってみると、外から見たよりは
住みやすそうな印象を受ける。板張りの短い廊下を
歩きながら青年は、照、と名乗った。
やはり目黒家の使用人で、当主が幼い頃から
親代わりに世話をしてきたのだという。
ずっと黙っている亮平を、照は緊張していると
勘違いしたのか、穏やかな口調で助言する。
別に亮平はしゃべれなくなるほど緊張してはいない。
ただ、しみついてしまった癖で、必要以上に誰かと
話したり何かを聞き返したりする事をしないだけだ。
今まで、何かを口に出せば、逆らった、口答えしたと
折檻される生活を送っていたから。
本当は優しい方なのだ、と聞いたところで
亮平の気持ちが浮上することはない。
優しかろうが冷たかろうが、この縁談が駄目になった
瞬間に亮平は帰る場所を失くし、あとは野垂れ死ぬ。
だが、もういいのかもしれない。
死ぬときは苦しいだろうが、そのあとは辛いことは
何もない。楽になれる。
亮平は案内された書斎へと足を踏み入れ
深々と頭を下げた。
縁談の相手、目黒蓮は何やら文机で作業をしている
らしく、亮平のほうを見ようともしない。
けれど、何の指示も許可もなく話し、動くことは
亮平には難しい。だから、いくらでも待つつもりで、
頭を下げたままでいた。
降ってきた低い声に、良かった聞こえてはいたのだと
少しばかり安堵する。むしろ声をかけてくれるだけ、
親切かもしれない。亮平はいちど顔を上げ、
再び深々と伏せた。
はあ、とため息をつく蓮に言われ、また顔を上げる。
今度は、窓から差し込む春らしい柔らかな日光に
包まれた、美しい彼の姿が目に飛び込んできて、
視線のやり場に困った。
美人は見慣れていると思っていた。
継母や異母妹も相当美しかったし、
翔太を含めた渡辺家の人々も、
整った顔立ちがそろっていたからだ。
しかし蓮は別格、というのだろうか。
男性の凛々しさを感じつつ、きっと、老若男女、
誰であろうと彼を美しいと評すだろう。
問われて、違いない。と亮平はうなずく。
すると、蓮は嫌そうにしかめ面をした。
吐き捨てるように言って、また背を向ける彼を、
亮平は拍子抜けして見つめる。
もっと罵られたり、蔑まれるかと覚悟していたのに。
なんだ、そんなことかと、すぐさま了承した。
振り向いた蓮はおかしな顔をしていたものの、
何も言ってくる気配がないので、
亮平はそのまま退室したのだった。
焦って泣きそうになっている幼い自分の声を聞いた
亮平は、これが夢だと理解した。あの、最低な日の夢
忘れもしない。
あれは、まだ尋常小学校に通っていた頃。
幼い亮平が、習い事の時間を教えて自室に戻ると、
部屋が文字通り空になっているのだ。
自分の荷物はもちろん、箪笥の中に
大事にしまっていた、母の形見の着物も帯も装品もー
果てには鏡台や口紅のひとつに至るまで、
すべてなくなっている。
亮平はすぐに、それが継母の仕業であると確信した。
声を聞きつけて、やってきたのは使用人の康二。
康二は、亮平が生まれたときから
世話をしてくれている、
もうひとりの母親のような存在だった。
康二は今まで買い出しに行っていて
何も分からないのだという。
申し訳ありません。申し訳ありませんと涙まじりに
頭を下げる彼女に、亮平は唇を噛み締めた。
亮平が二歳のときに母が亡くなってから後妻に入った
継母の沙織は、亮平のことを嫌っている。
沙織の娘、亮平の異母妹にあたる沙耶は、
亮平よりも三つ年下だが、
すでにその才の片鱗を見せ始めていた。
彼女の、母親ゆずりの華やかな容貌は
まるで西洋人形のように美しく整い、
習い事をさせればあっという間に
何でもできるようになってしまう。
それに異能の基本とされる異形を目に映す能力
「見鬼の才」も発現している。
ーそしてそのどれもが、亮平にはないものだった。
亮平の母と父の政略結婚は、
異能を受け継ぐためだった。それなのに…
異能を持って生まれたのは亮平ではなく、
異能者の家出身ではない沙織の娘の沙耶。
では何のために自分たちは引き裂かれたのだと
かつて父と恋人同士だった継母は面白くない。
そういった事情は、まだ幼い亮平でも理解している。
普段から、継母に
などと憎々しげに言われているから。
けれどそれに納得できるかは別の問題だ。
ここまでされて黙ってはいられない。
亮平にとって、母の形見は、この冷たい屋敷の中で
自分の心を守って生きていくために不可欠なのだから
思えば、このときはまだ、
父親を自分の味方だと考えていた。
だんだんと見向きもされなくなっていったが、
それでも、亮平が本当につらくてどうしようもない
と訴えれば、継母に注意くらいはしてくれるだろうと
しかし、期待はあっさり裏切られた。
継母の許を訪れ、自分の部屋の物が
なくなってしまった、何か知らないかと尋ねた亮平に
彼女は自分を泥棒扱いしたと怒り、
亮平を屋敷の裏手にある蔵の中に閉じ込めた。
閂で外から閉じられた蔵の扉は、
押しても叩いてもびくともしない。
必死に扉に縋りついて叫ぶ亮平を、みっともないと
笑って、継母はどこかへ行った。
今思い出しても、体が震えてしまう出来事だ。
蔵の中は高い位置にある小窓からの光だけが頼りで、
昼間でもずいぶん暗い。おまけに薄ら寒くじめじめと
して、あまり使われてもいなかったため、
物も置かれていない、寂しい空虚な場所だった。

















編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!