覚悟していたはずなのに。
急に足元に大穴があいたように、
恐怖か、絶望か、亮平の心は黒く染まった。
勝ち誇ったような沙耶の表情にも
意識が向かないほど真っ黒に。
父が渡辺家の次男である翔太を入り婿にと
考えていることは、前から気づいていた。
だから、もしかしたら、と自分でも気づかぬうちに
淡い期待を抱いてしまっていたのだ。
もしかしたら、唯一心を許せる翔太と
結婚できるかもしれない。
もしかしたら、阿部家の主人として
存在を許してもらえるかもしれない。
もしかしたら、沙耶はどこかに嫁いでいって
もう比べられずに済むかもしれない。
もしかしたら、父と昔のように
話せる日が来るかもしれない。
……なんて、馬鹿なことを考えたのだろう。
全部、ありえないに決まっている。
もう、顔を上げていることさえ億劫だった。
深々と首を垂れ、震える声で
と返事をする。
沙耶がわざとらしくはしゃぐ。
目黒家も異能を受け継ぐ家だ。
何人もの強力な異能者を輩出し、数えきれないほどの手柄を立て、数々の伝説を残す家。
地位、名声、財力、どれをとっても、
他家の追随を許さない名家である。
しかし一方で、当主の蓮は冷酷無慈悲な
人物として有名だった。
結婚に関しても、多くの良家の女性が、
彼と婚約し家に入ってから
三日ともたずに逃げ出すほど。
使用人たちの噂で、亮平でも知っているくらいだから
よほどひどいのだろう。
父は、そんな男性の許へ嫁に行けという。
そして、一度家を出たからには、もう二度と
阿部家の敷居を跨がせぬつもりだろう。
男子校にも通っていない亮平が、目黒家の当主となど
上手くいくはずがないことを知りながら。
継母もずいぶん機嫌が良さそうだ。
彼女にとって、亮平がどれだけ
目障りなのかがよく分かる。
何も言えないまま、血の気が引いていく。
この阿部家を出れば、少しは心が楽になるかと思った
けれど、嫁ぎ先が目黒家では、何も期待はできない。
早々に追い出されるか、
あるいは冷酷無慈悲と噂の
結婚相手の不興を買い、斬られるか。
今のように使用人として扱われれば、
まだいいかもしれない。
正式に婚約するより前に相手の家に入って
しきたりを学んだり、二人の相性を
見たりすることは稀にある。
気難しいと評判の蓮が相手なら、
なおさら、そういった措置をとってもおかしくない。
しかしそれも、亮平には何もかもに見放される
ことのように感じられ、目の前が真っ暗になった。
暗い気持ちで座敷から辞すると、
後ろから追いかけてきた翔太の、
自分を呼び止める声が聞こえた。
振り向けば、彼は今まで見たことがないほど
気まずそうに、苦しそうに顔を歪めている。
亮平は翔太を安心させるために微笑もうとして、
けれど、凍りついたようになって上手くいかなかった
そういえば、最後に笑ったのはいつだったか。
微塵も思っていないことを口に出す。
意図せず、言い聞かせるような
言葉がするすると出てきた。
翔太は今にも泣きだしそうな表情をしている。
どうして助けてくれなかったのかと、
亮平に攻めてほしい。
そんな彼の心情が見え隠れしていた。
心労がひどく、他人の感情を慮る余裕もない亮平は、
素っ気なく答える。
ふと、彼の名を呼んだのは、
あとからやってきた沙耶だった。
彼女の浮かべる微笑はたいそう美しく、
そして恐ろしく禍々しいものを含んでいる。
翔太は、唇を噛んで言葉を呑み込む。
名家の生まれで、能力にも容姿にも恵まれた翔太に、
唯一欠点があるとすればこれだろうか。
彼は臆病だ。優しすぎるがゆえに。
この場で彼が何か意見したならば、
きっと亮平か沙耶のどちらかを傷つける。
それを理解して結局口を噤むのだ。
彼が何を言おうとしたのか亮平にはわからないし、
今さら知りたいとも思わない。
それでも、そんな優しい彼に、
根本的な解決には至らずとも
何度も救われたことは確かだから。
亮平が今言えるのはこれだけだ。
もう、疲れた。
深々とお辞儀をして、振り返らずに去っていく兄を、
妹が美しい微笑を浮かべたまま見送っていた。
その晩は、なかなか寝つけず過ごした。
たった三畳ほどの、使用人用の自室はもともと
少なかったが、最低限の荷物をまとめてしまったら、
本当にもう何もなくなってしまった。
昔持っていた亡き母の形見の着物は
すべて捨てられるか
義母と異母妹に持っていかれてしまってもうない。
他の、高価な小物なども全部。
今の亮平の持ち物といえば、自分自身の身体と
使用人のお仕着せ、同僚から譲り受けた
お下がりの普段着と日用品くらいだ。
あとは、今日、父からだと言われ渡された、
一着の上等な衣装。
目黒家へ行く時に粗末な格好では、
阿部家の評判に傷がつく、ということらしい。
父はやはり、亮平が余所行きの着物ひとつさえ
持っていないことを知って放置していたのだと、
このときやっと理解した。
もうすっかり慣れてしまった薄い布団の中で
寝つけないでいると、なぜか走馬灯のように
過去のことが思い出される。
幸せだった記憶はもうはるか遠く、
痛かった記憶、苦しかった記憶ばかり。
そして、明日からもきっと幸せなど待っていない。
早くこの命が尽きるのを、ただ期待して眠る。
それだけ。まるで黄泉路を歩いているよう。
そんなことを考えて、
しかし自嘲すら亮平の顔に浮かぶことはなかった。
目黒家は、異能持ちの家の中でも名家中の名家である
異能を受け継ぐ家は、だいたい昔から活躍していて
歴史も長く、どこも名門で通っているが…
目黒家はその中でも頭ひとつ飛び抜けており、
筆頭と名高い。爵位を有していて、財産も莫大。
全国各地に広大な土地を所有しているため、
その土地を貸すことで勝手にいくらでも
金が入ってくるのだと、聞いたことがある。
当主の名は目黒蓮。年齢は今年で二十七。
帝大の出身で、卒業後、難関の士官採用試験に合格。
現在、軍では少佐として、
ひとつの部隊を率いる立場だという。
そんな若く立派な人物で、財もあるとなれば
さぞ豪勢な暮らしをしているだろうと思っていた。
早くも父からの宣告を受けた翌日には、
亮平は貧相な身にそぐわぬ派手な衣装をまとい、
少ない荷物を持って蓮の住まいへと向かう。
教えられた住所を頼りに、途中、慣れない路面電車を
利用しつつ、なんとか近くまで来られた、と思う。
けれどどう考えても、有名な目黒家の
豪邸の方角ではなく、郊外だ。
市街地からそう遠いわけではないが、
森や林、田畑が多く、民家もまばら。
街中と違い、夜になれば真っ暗になるであろうことは想像に難くない。目黒家からの案内人はなく、
この縁談には仲人や紹介人もいない。
途中までついてきていた阿部家の使用人は
市街地を出たあたりで帰ってしまい、
亮平は寂しい田舎道をひとりで歩く。
















編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。