有希にとって、朝の時間は少しだけ特別だ。
家の中が完全に動き出す前。
まだ空気が整いきっていない、その隙間に。
お兄さまの存在だけが、きれいに収まっている。
ダイニングの椅子に座る政近の背中は、いつ見ても真っ直ぐだ。
新聞を読む父と向かい合っていても、姿勢が崩れることはない。
制服の襟、ネクタイの位置、机に置かれた手の角度。
全部が「正しい場所」にある。
――すごいな、って思う。
有希は紅茶のカップを両手で包みながら、ちらりと兄を見る。
じっと見すぎると気づかれてしまうから、ほんの一瞬だけ。
お兄さまは、何でもできる。
勉強も、運動も、立ち振る舞いも。
褒められても顔色ひとつ変えないし、叱られても言い訳をしない。
「完璧」
その言葉が、いちばん似合う人。
でも――。
(……ちょっとだけ、遠い)
有希は、そう思ってしまう自分を、心の中で叱る。
遠いだなんて、そんなはずはない。
だって、お兄さまはちゃんと有希のことを見てくれる。
昨日だって。
靴紐がほどけていたのを、何も言わずに結び直してくれた。
今日だって。
目が合ったとき、ほんの少しだけ、表情を緩めてくれた。
それだけで、胸の奥があたたかくなる。
(……有希は、ちゃんと妹だ)
その確認を、何度も何度も繰り返す。
お兄さまの世界の中に、自分の居場所があると信じるために。
朝食が終わり、玄関で靴を履く時間。
政近はいつも、有希より少しだけ早く準備を終える。
そう聞かれて、有希は慌てて鞄の中を確認する。
政近は頷くだけで、それ以上は言わない。
過剰な心配もしないし、甘やかしもしない。
でも、その一言があるだけで、有希は安心できた。
外に出ると、朝の空気が少し冷たい。
並んで歩く二人の影は、長さが違う。
(いつか、追いつけるのかな)
背の高さのことじゃない。
お兄さまの隣に立って、同じ景色を見られるかどうか。
政近は前を向いたまま、迷いなく歩いていく。
その背中を見ながら、有希は思う。
――やっぱり、すごい人だ。
でも同時に、少しだけ願ってしまう。
完璧じゃないお兄さまも、いつか見てみたい、と。
それは、言葉にしない。
胸の奥に、大事にしまっておく。
周防政近は、遠くて、近い。
有希にとって、世界でいちばん尊敬していて、
世界でいちばん、目を離せない人だった。













編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!