第16話

消えない記憶‪💚💙💜
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2025/07/23 12:00 更新
タクヤ「ただいま……」




誰もいない玄関に、タクヤの声がぽつんと落ちた。




青空の家の居間は静かで、奥の部屋からは掃除機の音がかすかに聞こえる。職員さんはいるようだった。


けど、誰かと話す気にはなれなくて、タクヤはすぐに自室へ向かった。


ベッドの横のラックから、ふわっと軽いサッカーボールを取り出す。



外に出る理由なんて、なんでもよかった。



ただ、胸の中に重たいもやが広がって、それを何かにぶつけないと潰されそうだった。





午後の公園は静かだった。


滑り台の下に、ランドセルを背負った小さい子が一人で座っているだけ。

タクヤは、人気のない木の下に立って、何度もサッカーボールをゆっくり蹴った。



ただ、繰り返すように。




蹴って、受け止めて、また蹴って。




そのときだった。



タクヤ「えっ……」



ふと、視線の先。



遊具のある広場に、知らない子どもと一緒に手をつないで歩く女性がいた。



タクヤは一瞬にして、その人の顔を見て固まった。





髪の色も、服の感じも、雰囲気も変わっていたけれど









それでも、間違いなく“母親”だった。






タクヤ「…」







その隣には、がっしりとした背の高い男の人。
子どもは3〜4歳くらい。男の子だった。




「パパー、ママー!」

「はいはい、走ったらこけるよ〜?」

「おーい、こっちおいで〜!」




母親が、笑っていた。



タクヤの知っている、あの鋭い目も、冷たい声もなかった。




優しくて、明るくて、幸せそうで







まるで“あの頃”がなかったみたいな顔で。







俺のこと、もう……いない人みたいにしてんのかな






タクヤは胸の奥で、なにかがぽろりと砕けた音がした。





走って逃げるとかじゃない。


ただ、どうしてもそこにはいられなくて、足早に、青空の家へ戻った。







________

玄関は、まだ誰も帰ってきていなかった。
誰の声も聞こえない。

リビングを抜けて、タクヤは洗面所へ。
無意識に首に伸びた手にブンブンと首を振って、冷たい水を出してゴシゴシと手をこする。






なんで、なんで……俺のこと、忘れたみたいな顔してんの……






指の間が真っ赤になるまで洗って、ふと顔を上げる。
鏡の中に、タクヤの顔が映った。

泣きそうな、ぐちゃぐちゃな顔。
でもそれ以上に、タクヤはその“自分”の顔が――





タクヤ「……きたない」





ポツリと呟いて、歯を食いしばった。





きたない、きたない、なんでこんな顔してんの、俺……





手を強くほっぺに押しつける。




爪を立てようとしても、指が震えて思うように動かない。




痛くなれば、忘れられる……? 俺がいたこと、ほんとに……なかったことになったら、俺、なんなんだよ……





手を洗うふりをして、爪を立てる。
最初は手首にぎゅっと押し当てる程度だった。

でも――

消えたい、全部消したい……ここからも、思い出からも



爪が、皮膚に食い込む。



もうタクヤの頭は冷静ではなく、勢いは止まることを知らない。



左腕を引っかく。何度も、何度も。
爪の先に、うっすら血がにじむ。


ひりつく痛みと、じんじんと熱くなる感覚。
それが、ほんの一瞬だけ“今”を忘れさせてくれる気がして







「……タクヤ?」






ドアの向こうから聞こえたその声に、タクヤの指がぴたりと止まった。



振り返ると、カイがそこに立っていた。
視線はタクヤの手元と、鏡と、顔のすべてを映し出す。


タクヤは我に返り、咄嗟に手を後ろに隠した。



タクヤ「……なんでもない」



カイ「なんでもなくないでしょ。腕だってこんなに真っ赤。」


タクヤ「……ママ、笑ってた……あんな顔……俺、見たことなかった……」


声が震える。タクヤは顔を覆ってしゃがみ込んだ。


タクヤ「新しい家族がいて、俺のことなんかもう……何も思ってないんだよ。全部なかったことにしてるんだよ……」

カイ「タクヤ……」

カイは静かに膝をついて、タクヤをそっと抱きしめた。



カイ「タクヤは俺たちの大切な家族だよ。タクヤの場所は昔のおうちだけじゃない。ここにだってあるんだよ。」



タクヤ「……ここにいて、いい?」




カイ「もちろん」




タクヤの声は、かすれていた。
けれど、それでも確かに届いていた。

「タクヤのこと、皆ここでずっと待ってるよ」
カイはそう言って、タクヤの手から力をほどき、自分の両手で包んだ。




カイ「そばにいるから」




タクヤの涙が、ぽと、ぽとと落ちていく。






それは痛みの涙じゃない。




“もう一人じゃない”と信じられた日の、はじめての涙だった。








青空の家の窓の外は、茜色に染まり始めていた。
リビングではカイが、小さな救急箱を静かに開けていた。


タクヤはソファの端にちょこんと座って、袖をまくったまま、腕を抱えている。



さっきより少し落ち着いた表情だけど、目の周りはまだ赤かった。



カイ「ちょっとしみるかも。ゆっくりやるからね」

カイは優しく言って、湿らせたガーゼで赤くなった皮膚をそっとなぞる。
引っかいた跡がはっきり残るところには、小さなキズパッドを丁寧に貼っていった。

タクヤ「……なんか、恥ずかしい」

カイ「恥ずかしくないよ」
カイの声はやわらかくて、タクヤの胸の中にじんわりと広がった。


カイ「心が苦しいと、身体でどうにかしようとしちゃうこと、あるよ。……でも、手当てって、心にもするものだから」


カイ「……心の、手当て?」

カイ「うん。だから、ここでいろんな気持ち、吐き出していいんだよ。タクヤが何も言わなくても、俺たち、気づけるように一緒にいるから」

タクヤ「……うん」

タクヤは小さくうなずいて、そっとカイの手を握った。



リョウガ「ただいまー。……って、あれ?」

玄関のドアが開く音。
そして、すぐにリョウガの声が廊下を通って届いた。

リョウガ「タクヤ……?」

リビングに顔を出したリョウガは、ソファの上の二人を見て、すぐに空気の違いを察した。
タクヤが、すこしうつむいているのも。

タクヤ「おかえり……リョウガ」

リョウガ「うん、ただいま。……大丈夫?」

タクヤはちょっとだけ口をへの字にしてから、ゆっくりうなずいた。

タクヤ「……大丈夫。もう、大丈夫」

リョウガは何も言わずに、タクヤの横にすとんと座った。
そして、何気ない動作でタクヤの頭をぽん、と軽く撫でた。

リョウガ「そっか、がんばったんだな。よしよし」

その一言に、タクヤの喉が少しだけ震えた。
こらえていたものが、また胸の奥から湧きあがってくる。




タクヤ「……リョウガ、俺……ちょっと、ぐちゃぐちゃになっちゃった」


リョウガ「なってもいいよ」
そう言ってゆっくりとタクヤの背中をさすった。


リョウガ「カイに話せて、ちゃんとここにいられてる時点で、ぜんぶ、えらいんだからさ」

タクヤ「……うん」

タクヤは少しの間、リョウガの肩にもたれるようにして目を閉じた。

包帯が巻かれた自分の腕を見ながら、
“ここにいる”という感覚を、改めてじんわりと感じていた。

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