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第2話

永遠に貴方のもの
26
2026/06/26 15:02 更新
【登場人物紹介】
雛菊 六花
夜霧 凪斗
人生って、案外あっけなく壊れるものなんだな。…そう思った。玄関の前に置かれたボストンバッグは、私が十八年間生きてきた証のすべてだった。

 服が数着。
 高校の教科書。
 卒業アルバム。
 財布。
 スマホ。

それだけ。

「……もう帰ってくるな。」

お父さんは最後まで私を見なかった。背中越しに聞こえた声は、怒っているというより疲れ切っていた。

「お前のことは高校まで育てた。それだけでも十分だろ。」

そんな言葉を最後に、ガチャリと音を立て玄関の戸が閉まる。たったそれだけの音で、私の家は他人の家になった。私はしばらく動けなかった。
インターホンを押せば、もしかしたら開けてくれるんじゃないか。
  謝れば。
  泣けば。
 「頑張るから」って言えば。
そんな期待が頭をよぎる。でも、指先はボタンに触れられなかった。

何度も見てきた。テストで赤点を取るたび。運動会で転ぶたび。アルバイトも続かなくて辞めるたび。両親は少しずつ、少しずつ私を見る目を変えていった。

 期待、諦め、失望。そして……無関心。

だから、もう分かっていた。あの家には、私の居場所なんて残っていない。
バッグを持ち上げる。重い。なのに、中身は軽い。

不思議だな。人生ってこんなに軽いのに、どうしてこんなに重く感じるんだろう。

 ぽつり。

頬に冷たいものが落ちた。見上げると、空は鉛色だった。次の瞬間。ザーッ、と世界が白く霞むほどの雨が降り始めた。

「……最悪。」

思わず笑ってしまった。今日はつくづく運がない。傘なんて持ってきてない。家を追い出される予定なんて、今朝の私は知らなかったから。

 歩く。ただ歩く。行く当てもなく。

駅前を抜け、人混みに紛れて、知らない道を歩いていく。スマホを見る。友達……いない。正確には、いるにはいる。高校で少し話す程度の子たち。でも、「家追い出されたから泊めて」なんて言えるほどの相手じゃない。

親戚?もっと無理。みんな「ちゃんとしなさい」で終わる。ちゃんとできたら苦労しないのに。

 勉強も、運動も、人間関係も。

何をやっても人並みにすら届かない。頑張っても結果が出ない。そんな人生だった。高校だって、地域で一番偏差値が低い学校。やっと卒業できたと思ったら、この有様。

「……私、生きてる意味あるのかな。」

声に出した途端、胸が痛くなった。違う。本当は誰かに「あるよ」って言ってほしかっただけだ。でも、誰もいない。雨音だけが返事をしていた。けれどその返事は、私の求めていたものとは反対だった。

気付けば電車に乗っていた。何処へ向かうかも考えず、一番遠くまで行けそうな路線に飛び乗っただけ。乗り換えを繰り返し、知らない街へ出る。ネオンがやけに眩しい。夜になれば、もっと綺麗なんだろう。そう思いながら歩いていると、大きなアーチが目に入った。

『新宿歌舞伎町一番街』

テレビで何度も聞いたことのある名前だった。
 危ない街。
 怖い街。
 近付くなって学校でも言われた場所。
……でも。

「帰る家、ないし。」

私は乾いた笑いを漏らした。もう、怖いものなんて何も残っていなかった。確か、此処には居場所の無い子供達も大勢集っていたはずだ。
雨は止むどころか、さらに強くなる。髪が顔に張り付く。服は肌にまとわりついて気持ち悪い。靴の中までぐちゃぐちゃだった。周りを見れば、人はたくさんいる。

 スーツ姿の男。
 派手な髪の女の人。
 客引きをする若い男たち。

みんな忙しそうに歩いている。誰も私なんか見ない。それが少しだけ安心だった。こんな惨めな姿、見られたくなかったから。
……でも。安心した途端。ぷつり、と何かが切れた。

「……っ」

涙が溢れた。止まらなかった。膝から力が抜ける。私はビルとビルの間、少しだけ人通りの少ない場所にしゃがみ込んだ。ボストンバッグを抱きしめる。

「なんで……ッ」

嗚咽が漏れる。押し殺そうとも叶わず、私は激しくしゃくり上げた。

「私だって頑張ったのに……ッ」

幸いなことに、誰にも届かない声。雨が全部流していく。涙を嫌うかのようでもあり、私の孤独を守ってくれているようでもある、そんな雨。

「ちゃんと勉強したのに……ッ」

結果は出なかった。クラス内最低点数を取り、みんなから嗤われ。無駄な頑張りだけは一応知っている両親からは、叱るに叱れず生暖かい視線だけを向けられた。

「運動だって練習した……ッ」

これも、嗤われた。体育祭のクラスリレー。毎朝ランニングをして、放課後もバトン練習には必ず参加した。それでも本番では、盛大に転けた挙句にバトンパスをミスした。

「バイトも頑張った……ッ」

こちらも失敗ばかりだった。皿を割り、レジを打ち間違え、寝坊して無断欠席をして。散々だった。

「私なりに…頑張ったのに……ッ」

胸が苦しい。息ができない。誰か、誰か助けて。
そう願ったところで、この街は優しくなんてない。みんな自分のことだけで手一杯だから。人は通り過ぎる。視線だけ寄越して。興味を失って。また、歩いていく。当たり前だ。知らない女が泣いているだけ。関われば面倒事になる。それも、きっとこの街では珍しいことでもないのだろう。私だって逆の立場なら、見て見ぬふりをしたかもしれない。だから、もう諦めようと思った。
誰も来ない。誰も助けない。助けてなんか、くれやしない。
そう思った、その時だった。雨音が、少しだけ遠くなる。

「……ねぇ。」

男の人の声。頭上から降ってきた。

「そんなとこいたら風邪ひくよ。」

私はゆっくり顔を上げる。最初に見えたのは、黒い傘。その向こうに、整った顎の線。雨に濡れた黒髪に、ウルフカットのインナーカラーのワインレッド。そして。ネオンを映した深紅の瞳が、まっすぐ私を見つめていた。
____綺麗だ。
その一言しか、頭に浮かばなかった。こんな人が、この世にいるんだ。現実感のないその笑顔に、私は思わず息を呑む。

「立てる?」

差し伸べられた手。温かそうな手だった。私は震える指先を伸ばす。その瞬間。この出会いが、私の人生を変えるなんて。この時私は、夢にも思っていなかった。
差し出された手を、私はしばらく見つめていた。本当に私へ向けられているのか、分からなかったからだ。
こんな場所で、こんな私に。手を差し伸べる人なんているはずがない。

「……どうした?」

男の人は少し首を傾げた。優しい声だった。責めるような色はない。私は恐る恐る手を伸ばす。指先が触れた瞬間、相手の手が私の腕を支えた。立ち上がる。ずっとしゃがんでいたせいで足元がふらついた。

「おっと。」

肩を支えられる。何処か慣れたような手つきだった。

「大丈夫?」

「っ……はい。」

声が掠れた。泣きすぎたせいだ。男の人は私の返事を聞くと、小さく笑った。

「全然大丈夫そうに見えないけど。」

その言葉に、思わず俯いてしまう。恥ずかしかった。唯一周りから褒められていた顔も、涙でぐしゃぐしゃ。服は濡れている。髪もぼさぼさ。最悪の状態だ。
……それなのに。彼は嫌そうな顔一つしなかった。

「ほら。」

傘が私の方へ少し傾く。今まで雨に打たれていた肩が隠れた。

「とりあえず移動しよ。」

「……え?」

「風邪ひく。」

まるで当たり前のことを言うみたいに。彼はそう言った。
私は言葉に詰まった。知らない人だ。着いて行っていいのかも分からない。
でも、正直な話。断る理由もなかった。帰る場所がない。行く場所もない。お金だってほとんどない。
それに何より…目の前の人から目が離せなかった。整った顔立ち。すらりとした体型。どこか余裕のある雰囲気。テレビの中の人みたいだった。

「……あのっ」

「ん?」

「なんで……。」

「ん?」

「なんで私なんかを……。」

"助けてくれるんですか"。そう続けようとした。けれど彼は一瞬だけ目を丸くして、それから吹き出した。

「あっはは、何それ。」

「え……。」

「そんなの、目の前で泣いてたからだけど。」

「、でも……」

「泣いてる女の子、ほっとけないよ。」

当たり前じゃん。そう言うように笑う。その笑顔を見た瞬間。胸の奥が少しだけ熱くなった。
ああ、久しぶりだ。こんな風に誰かの優しさに触れたのは。
気付けば私は彼の後ろを歩いていた。雨の歌舞伎町。ネオンが濡れた地面に反射している。通り過ぎる人たちの視線が、時々こちらへ向く。その度に私は肩を縮めた。けれど彼は気にしていないようだった。

「名前。」

「え?」

「君の名前。なんて言うの?」

「あ……。」

突然聞かれて戸惑う。

「…雛菊、六花です。」

「へぇ。」

彼は少し考えるように呟いた。

「綺麗な名前じゃん。」

心臓が跳ねた。今まで何度も名前を名乗った。でも。そんな風に言われたのは初めてだった。

「あなたは……?」

「夜霧凪斗。」

ヨギリ、ナギト。不思議な響きだった。夜みたいな名前。歌舞伎町に似合う名前。

「凪斗さん、ですね。」

「さん要らねぇよ、敬語も。」

「え?」

「そんな歳離れてねぇし。」

彼は笑う。私は慌てて口を閉じた。なんだか緊張する。数分歩いた先で、凪斗は一軒の店の前で立ち止まった。
派手な看板。煌びやかな照明。私は思わず後ずさる。

「……ホストクラブ?」

「そう。」

さらっと返された。頭が真っ白になる。ホスト。テレビでしか見たことがない。
怖い場所、お金を使う場所。そんなイメージしかなかった。

「っあの、私お金___」

「いや、取らねぇよ。」

「え?」

「別に客として呼んだわけじゃないし。」

凪斗は笑って店の扉を開いた。

「その状態で外いる方がやばいだろ。」

暖かい空気が流れてくる。私は少し迷った。…でも。今の私に選択肢なんて無かった。恐る恐る中へ入る。
店内はまだ営業前なのか、人が少なかった。シャンデリア。革張りのソファ。ガラスのテーブル。全部が煌びやかで、別世界のようだった。

「座って。」

言われるままにソファへ腰掛ける。ふかふかだった。緊張で落ち着かない。

数分後。凪斗がグラスを持って戻ってきた。

「はい。」

透明な水。それだけなのに、妙に綺麗に見えた。

「ありがとうございます…あ、じゃなくて、ありがとう。」

冷たい水が喉を通る。思ったより渇いていたらしい。一気に半分ほど飲んでしまった。凪斗は向かいの席へ座る。

「少し落ち着いた?」

私は頷いた。すると彼は顎に手を添えた。

「で。」

深紅の瞳がこちらを見る。

「何があったの?」

その一言で。必死に押し込めていた感情がまた溢れそうになった。
 家を追い出されたこと。
 帰る場所がないこと。
 何をやっても上手くいかなかったこと。
 そんな自分が大嫌いなこと。
全部。全部、話してしまいたくなった。凪斗は黙って待っていた。
急かさないで、遮らないで。ただ、私を見つめる。その姿があまりにも優しくて。気付けば私は、ぽつりぽつりと話し始めていた。
まるで。今まで誰にも言えなかったことを吐き出すみたいに。
そしてその時の私はまだ知らない。この人が私の人生で一番大切になることも。この人が私の人生を壊すことになることも。何一つ知らなかった。
人に、自分の話をこんなにしたのは初めてだった。何から話したのかなんて覚えていない。
 家を追い出されたこと。
 勉強ができなかったこと。
 運動も、人付き合いも、何をやっても人並み以下だったこと。
 頑張っても、頑張っても、報われなかったこと。
言葉は止まらなかった。堰を切ったように溢れ出して、気付けば一時間近く話し続けていた。
その間、凪斗は一度も話を遮らなかった。相槌を打ちながら、静かに聞いているだけ。それだけなのに、不思議と安心した。

「……だから。」

私は俯いたまま、小さく笑う。

「私って、生きてる意味あるのかなって。」

店内が静かになる。自分で言っておきながら、少し恥ずかしかった。重い話をしすぎた。困らせちゃったかな。そう思って恐る恐る顔を上げると、凪斗は腕を組みながら私を見ていた。

「……うーん。」

少し考えるような仕草。

「分かんねぇ。」

「え?」

思わず間抜けな声が漏れた。

「生きる意味なんて、俺も知らねぇし。」

あまりにも予想外の答えだった。もっとこう、

 『君には価値があるよ』

とか。

 『これからいいことあるよ』

とか。そんな言葉を想像していた。でも彼は違った。

「俺さ。」

テーブルの上でグラスを指先で回しながら続ける。

「綺麗事って嫌いなんだよ。」

「……。」

「だから、テキトーな励ましはしない。」

その言葉に、不思議と嫌な気持ちはしなかった。むしろ、少しだけ肩の力が抜ける。

「でも。」

凪斗は私を見る。

「今日死ぬ理由もなくね?」

その一言に、息が止まった。

「どうせ家もない。」

「……うん。」

「仕事もない。」

「うん。」

「だったらさ。」

彼は少し笑う。

「好きに生きれば?」

「……好きに?」

「そう。」

軽い口調だった。気まずいから笑っておこうみたいな、そんなのじゃなくて。

「どうせ失うもんないじゃん。」

その言葉が、胸に落ちた。失うものがない。確かにそうだった。
家もない。将来も見えない。何も持っていない。

「なら、これから手に入れるだけ。」

凪斗は言う。

「ゼロって意外と強いぞ。」

その笑顔が眩しくて、私はしばらく見つめてしまった。この人は、何でこんなに前向きなんだろう。私なら、とっくに折れてるのに。

「……ありがとう。」

自然と言葉が出た。

「ん。」

彼は照れた様子もなく頷くだけだった。その後も他愛のない話をした。好きな食べ物。高校であった変な先生の話。最近見た映画。気付けばさっきまで泣いていたことを忘れるくらい笑っていた。

「そういや。」

凪斗が思い出したように言う。

「姫って今何歳?」

「ひ、姫!?」

いきなり出た生涯聞くことの無さそうな呼び方に、私は問いに答える余裕もなく驚いた。

「ん?あぁごめんごめん、ホストは相手の女の子、姫って呼ぶの。で、何歳?」

「あ、そ、そうなんだ……、えっと、十八歳だよ。」

「十八か。」

彼は少しだけ残念そうな顔をした。

「酒飲めねぇじゃん。」

「あ……。」

私は思わず笑った。

「あと二年か。」

「うん。」

少しだけ沈黙が流れる。私はテーブルのガラスに映る自分を見つめた。二年。二年後なんて想像もつかない。
ちゃんと生きてるのかな。仕事してるのかな。それとも、どこかで野垂れ死んでるのかな。
そんなことを考えていると。

「じゃあさ。」

凪斗が急に身を乗り出した。

「二十歳になったら、一緒に飲む?」

私は目を丸くする。

「え……?」

「初めての酒。」

そう言って笑う。

「俺が付き合ってやる。」

心臓が、どくんと音を立てた。初めてのお酒。それを、この人と。そんな未来があるなんて考えたこともなかった。

「……本当に?」

「嘘ついてどうすんだよ。」

「でも……。」

「二十歳の誕生日。」

彼は指を一本立てる。

「その日、店来い。」

店来い。その何気ない一言が、私には特別に聞こえた。

「約束。」

凪斗が小指を差し出す。私は少し戸惑ってから、小さく笑った。

「……子どもみたい。」

「いいじゃん。」

「ふふ。」

自然と笑みが零れる。私はゆっくり小指を絡めた。指先から伝わる温もりに、胸が熱くなる。

「約束。」

「うん。」

離れたくなくて、ほんの少しだけ力を込める。凪斗は気付いているのかいないのか、そのまま穏やかに笑っていた。
____その時だった。

「そうだ。」

私は思い出したように口を開く。

「私、その日。」

胸が高鳴る。こんな大胆なことを言うなんて、自分でも思っていなかった。

「凪斗にシャンパン下ろしてもいい?」

一瞬だけ、凪斗が目を瞬かせる。それから、声を上げて笑った。

「あははっ!」

店内に笑い声が響く。

「何それ。」

「だって……二十歳になったら働いて、お金貯めて。」

私は拳をぎゅっと握る。真剣な眼差しで、彼の深紅を捉える。

「絶対、凪斗に会いに来る。」

その言葉に嘘はなかった。今、この瞬間。私には初めて、生きたい理由ができた。この人に会いたい。約束を守りたい。それだけで、十分だった。凪斗は笑いながら私を見つめる。

「じゃあ、待ってる。」

その一言だけだった。けれど、私には何より嬉しかった。

「ありがとう、私頑張るから…!」

私は笑った。現実味がなかった。つい数時間前まで、未来に一切の希望が無く、彷徨っていた人とは思えないぐらい、この先の未来に夢を抱いていた。
あの日から、私は変わった。……いや。変わろうと決めた。
あの夜、店を出る時。凪斗は店の近くにある、女性専用のシェアハウスを紹介してくれた。

「知り合いが管理してるとこ。家賃も安いし、すぐ入れると思う。」

紹介状のような紙を一枚渡される。

「本当に……いいの?」

「別に。」

彼は気楽そうに肩を竦めた。

「困ってるなら使えば?」

その「別に」が、私には優しさに聞こえた。
翌日。私はそのシェアハウスへ向かった。築年数は古い。壁紙も少し黄ばんでいる。六畳ほどの小さな部屋に、ベッドと机があるだけ。それでも。

「……私の部屋。」

誰にも追い出されない。誰にも怒鳴られない。何より、今までずっと何も出来ずに住まわせてもらってた実家が心地悪くて、"一人暮らし"というものが欲しかった。
初めてできた、自分だけの居場所。荷物を置くと、部屋は驚くほど広く見えた。持ち物なんて、ほとんどない。それでも、不思議だった。家を失ったはずなのに。心は、少しだけ軽くなっていた。

________________________

「資格?」

ハローワークの職員さんが首を傾げる。

「はい。」

「何か持ってる?」

「……ありません。」

「うーん。」

困ったように笑われる。

「高校卒業したばかりだと、なかなか厳しいかな。」

分かっていた。分かっていたけれど、胸が痛んだ。

「でも。」

職員さんはパンフレットを何冊か差し出した。

「資格を取れば、就職できる仕事は増えるよ。」

私はその日、参考書を買った。生まれて初めて、自分から勉強したいと思った。家へ帰ると、机に向かう。シャーペンを握る。五分で眠くなる。

「……だめだ。」

頭に入らない。中学の内容すら怪しい。問題文の意味が分からない。何度読んでも理解できない。
昔なら。そこで投げ出していた。どうせ無理だから。どうせ私は馬鹿だから。そう言って。
……でも。机の隅には、一枚の紙が置いてある。

『二十歳の誕生日』

そう書いた紙。その下には。

『凪斗と約束』

たったそれだけ。それを見るだけで、不思議と手が止まらなかった。

「あと二年。」

ぽつりと呟く。

「頑張れば……会える。」

その一心だった。

________________________

朝、コンビニでアルバイト。
昼、ハローワークや資格学校。
夜、勉強。
毎日同じことの繰り返し。眠くて仕方ない日もあった。問題集を開いたまま寝落ちしたこともある。泣きながら参考書を閉じた日もある。

「なんでこんなのも分かんないの……。」

何度、自分を嫌いになったか分からない。
でも、それでも。その度に思い出す。雨の日。一本の傘。優しく笑ったあの人。

『ゼロって意外と強いぞ。』

その言葉だけで、また立ち上がれた。

________________________

三か月後。私は最初の資格試験を受けた。手が震えた。緊張で問題文が頭に入らない。

「落ち着いて……。」

深呼吸。一問ずつ。一問ずつゆっくり、焦らず解く。
結果。……不合格だった。あと三点。たった三点足りなかった。

帰り道。悔しくて、駅のベンチで泣いた。

「また……駄目だった。」

昔の私なら、ここで終わっていた。でも。スマホを開く。
ロック画面には、歌舞伎町で撮ったネオンの写真。凪斗と出会った夜、自分で撮ったものだ。

「……もう一回。」

立ち上がる。

「次は受かる。」

その日から、もっと勉強した。

________________________

半年後。

「おめでとうございます。」

試験官が微笑む。

「合格です。」

「……え。」

一瞬、意味が分からなかった。

「ほ、本当ですか?」

「はい。」

私は思わず、その場で泣いた。人生で初めて。努力が結果になった瞬間だった。
その足でコンビニへ寄り、小さなショートケーキを一つ買った。
部屋へ帰る。テーブルに置く。

「……やった。」

誰もいない部屋。それでも、私は笑っていた。

「凪斗。」

思わず名前を口にする。

「一個取れたよ。」

報告したい。会って話したい。でも。二十歳までは行かない。約束だから。それまで我慢する。
その我慢すらも、幸せだった。

________________________

そこから一年。二年。私は少しずつ資格を増やしていった。コンビニを辞め、事務の仕事に就いた。最初のお給料。
明細を見た瞬間、胸がいっぱいになる。

「……こんなにもらえるんだ。」

生活費を払う。家賃を払う。食費を払う。
それでも残ったお金を、私は一つの封筒へ入れた。表には大きく書く。

『凪斗』

一万円。二万円。三万円。
少しずつ膨らんでいく封筒を見るたび、自然と笑みがこぼれた。

「もっと頑張ろう。」

昇給した。資格手当も付いた。残業も引き受けた。休みの日には短時間のアルバイトまで始めた。
疲れて帰る夜もあった。それでも苦じゃなかった。全部。全部、あの人のためだから。
封筒はいつしか一冊の通帳へ変わり、数字は少しずつ増えていく。その数字を見るたび、胸が高鳴った。

「絶対びっくりするよね。」

初めて会った時、何も持っていなかった私が。ちゃんと働いて。ちゃんと稼いで。約束を守りに行く。きっと凪斗は笑ってくれる。

「頑張ったじゃん。」

そう言って、頭を撫でてくれるかもしれない。そんな未来ばかり想像していた。
____だから私は知らなかった。
約束の日が近づくほど。私が幸せを数えるたび。運命は静かに、残酷な結末へと秒針を刻んでいくことを。
二十歳の誕生日。午前六時。目覚ましが鳴るより先に、私は目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝日が、いつもより眩しく見える。

「……今日だ。」

思わず声が漏れる。待ち続けた二年間。何度カレンダーを見たか分からない。何度この日を想像したか分からない。その日が、ついに来た。
ベッドから飛び起き、机の上のカレンダーを見つめる。

六月八日。赤いペンで、大きな丸を付けていた日。その隣には、小さく書かれた文字。

『凪斗と約束』

私はその文字を指でそっとなぞる。

「ちゃんと来たよ。」

誰に言うでもなく、そう呟いた。朝から胸が落ち着かない。歯を磨いていても。朝ご飯を食べていても。時計ばかり見てしまう。

「まだ七時……。」

思わず笑ってしまう。夜になるまで、あと十七時間もある。

________________________

仕事へ向かう道中。

「雛菊さん。」

同僚に呼び止められる。

「今日なんか機嫌いい?」

「え?」

「朝からずっと笑ってる。」

「……そうですか?」

自分では気付かなかった。でも言われてみれば、口元がずっと緩んでいる気がする。

「今日、誕生日なんです。」

「あっ! そうなんだ!」

おめでとう、と拍手をされる。照れ臭くて笑う。

「ありがとうございます。」

「今日は予定あるの?」

「……はい。」

その一言だけで、胸がいっぱいになる。予定。そう。
今日は、約束の日だ。

________________________

定時のチャイムが鳴る。私は誰よりも早く会社を出た。

「お疲れ様です、お先に失礼します!」

「お疲れー!」

会社を出ると、夕焼けが街を染めていた。私はまっすぐ自宅へ向かう。
クローゼットを開ける。一番奥。透明なカバーを外す。

「……。」

薄紫色のワンピース。高価ではない。ブランド物でもない。でも、この日のために少しずつお金を貯めて買った一着だった。

「似合うかな。」

鏡の前で小さく回る。髪も丁寧に巻く。いつもより少しだけメイクを頑張る。
アイラインを引いて。リップを塗って。何度も何度も、鏡を見る。

「……大丈夫。」

昔の私より、少しだけ大人になれた気がした。最後に机の引き出しを開ける。中から通帳を取り出す。そして封筒。今日のために用意したお金だ。

二年間。残業して。資格を取って。節約して。少しずつ貯めた。

「今日は奮発するからね。」

思わず笑う。凪斗、驚くだろうな。

「六花すげぇじゃん。」

そう言って笑ってくれるかな。そんなことばかり考えていた。

________________________

夜。歌舞伎町。二年前と同じ街。ネオンは相変わらず眩しくて、人通りも多い。
でも。あの日とは違う。私は泣いていない。濡れてもいない。胸を張って歩いている。
この街へ帰ってきた。約束を守るために。店の前に立つ。深呼吸。
ドアノブに手を掛ける。カラン、と扉が開いた。

「いらっしゃいませ!」

キャストたちの元気な声が響く。その中で。

「あ。」

一人の青年がこちらを見た。
黒髪に、インナーのワインレッド。琥珀色の瞳。少しだけ、大人っぽくなった横顔。
目が合う。一瞬。ほんの一瞬だけ、時間が止まった。

「……六花?」

その声を聞いた瞬間。涙が出そうになった。

「凪斗……!」

彼は驚いたように目を見開き、それから笑った。

「マジで来た。」

「約束したもん。」

「あはは、そうだな。」

その笑顔は、二年前と何も変わっていなかった。私は嬉しくて仕方なかった。凪斗は席まで案内してくれる。

「二十歳。」

「うん。」

「誕生日。」

「うん!」

「おめでとう。」

その一言だけで、二年間頑張ってきてよかったと思えた。

「ありがとう…!」

凪斗が私の頭をぽん、と軽く叩く。

「大人になったじゃん。」

「……えへへ。」

頬が熱い。こんなに嬉しいことってあるんだ。
席に着くと、他のキャストたちも集まってきた。

「え、この子が例の?」

「二年前の?」

「誕生日今日なんだ!」

「おめでとー!」

口々に祝福される。私は何度も頭を下げた。

「ありがとうございます!」

凪斗が楽しそうに笑う。

「約束覚えてた?」

「もちろん。」

私は胸を張る。

「忘れるわけないよ。」

「そっか。」

その時だった。スタッフが尋ねる。

「今日は何入れる?」

私は迷わなかった。

「シャンパン、お願いします。」

凪斗が少し驚いた顔をする。

「いいの?」

「うん。」

私は笑う。

「約束だから。」

店内が少しざわつく。スタッフが確認する。

「こちらでよろしいですか?」

金額なんて見なかった。今日のために貯めたんだから。

「お願いします。」

しばらくして。店内の照明が少し落ちた。音楽が鳴り始める。

「本日お誕生日の素敵な姫様から凪斗王子へ、高額一撃頂きました!」

キャストたちの声が響く。手拍子、笑い声、祝福。シャンパンが開く軽快な音。パァン、と弾けたその音に、店内から歓声が上がる。

「姫様おめでとう!」

「かんぱーい!」

グラスへ黄金色の液体が注がれていく。そして凪斗が、一本の細長いボトルを手に取った。

「これ。」

透明な液体。ラベルには、小さく三文字。

 XYZ。

「初めての酒なら、これ飲んでみ。」

彼がグラスへ注ぐ。柑橘の爽やかな香りがふわりと漂った。私はグラスを両手で持つ。

「……いただきます。」

そっと口を付ける。最初に広がったのは、レモンのきゅっとした酸味。けれど、それだけじゃない。甘いオレンジのような香りがふわりと鼻へ抜けていく。爽やかで。少しだけ大人びていて。甘酸っぱくて、まるで少し背伸びしたレモネードみたいだった。

「……おいしい。」

思わず笑みがこぼれる。

「だろ?」

凪斗もグラスを口元へ運ぶ。喉が上下する。照明を受けて輝く横顔が、あまりにも綺麗だった。私はその姿に見惚れてしまう。
___ああ。今、人生で一番幸せだ。そう思った、その瞬間だった。
凪斗がグラスをテーブルへ置き、何でもないことのように口を開いた。

「あ、そういえば俺、店移動すっから。」

私は、笑ったまま、何も解らずに固まった。
「あ、そういえば俺、店移動すっから。」

……え?一瞬、言葉の意味が頭に入らなかった。グラスを持つ手が止まる。

「……え?」

聞き返した声は、自分でも驚くほど間の抜けたものだった。凪斗は何事もなかったように笑う。

「来月から別の店。」

さらり、と。本当に、天気の話でもするみたいに。

「あと誕生日おめでとー。」

グラスを軽く掲げる。

「じゃあな。」

笑った。それだけだった。私の頭の中は真っ白になる。
……何を言ってるの?店移動?じゃあ、此処にはもういない?約束は?私が今日ここへ来ること、分かってたよね?来月からって……。え。じゃあ、私は。
……これから、どうすればいいの?

「……凪斗?」

声が震える。

「ん?」

「今……何て言ったの?」

「だから、店移るって。」

あっけらかんとしている。まるで私が驚く理由なんてないと言わんばかりに。

「え……。」

頭が追いつかない。ぐるぐると巡る思考が、どれだけ纏めようとも解れていく。

「え、待って。」

笑ってしまう。混乱すると、人って笑うんだ。

「え、嘘でしょ?」

「嘘ついてどうすんの。」

懐かしい言葉だった。2年前にも聞いたな、この言葉。

「だって……。」

だって。二年間。私は。そのためだけに。凪斗にたくさん会うためだけに、生きてきたのに。

「移動先……。」

掠れた声で尋ねる。

「どこなの?」

お願い。教えて。教えてくれれば行くから。また通うから。もっと働くから。もっと頑張るから。もっと凪斗に、貢ぐから。
凪斗は一瞬だけ私を見た。そして。

「秘密。」

笑った。その一言で、胸の奥が音を立てて崩れた。

「……なんで?」

「ん?」

「ッなんで教えてくれないの?」

「別に。」

別に。また、その言葉。二年前は優しく聞こえたその言葉が、今は刃物みたいだった。

「え……待って。」

呼吸が速くなる。

「私、また会いたい。」

「うん。」

「通いたい。」

「うん。」

「約束したじゃん。」

「したね。」

「ッだったら……!」

思わず立ち上がる。椅子が大きな音を立てた。周りのキャストたちがこちらを見る。でも、そんなことはどうでもよかった。

「意味分かんないッ!」

声が裏返る。

「私がどれだけ頑張ったと思ってるのッ!?」

涙が溢れる。

「二年間……ッ!」

止まらない。

「勉強して!資格取って!働いて!残業して!全部……ッ!」

喉が痛い。こんなに大きな声出せたんだ、と我ながらびっくりした。

「全部ッ、凪斗に会うためだったのに……!」

店内が静まり返る。さっきまで鳴っていた音楽が、遠い。シャンパンの泡だけが静かに弾けていた。

「私……ッ!」

息が苦しい。空気が足りていない。それでも、叫んだ。

「初めてのお酒もッ、シャンパンもッ、全部今日のためだった!」

震える手でテーブルを叩く。置かれたグラスが音を立て、中が波打った。

「私がどんだけお金使ったと思ってるの!」

その言葉が落ちた瞬間だった。凪斗の笑顔が消えた。すっと。本当に、一瞬で。
さっきまで私を見て笑っていた人とは別人のように。冷たい目。感情のない顔。燃えるような深紅だった瞳は、氷みたいだった。

「……は?」

低い声。呆れたような笑いを含んだ、初めて聞く声だった。しかし"初めて"なのは彼の声だからで、この呆れた声は、今まで嫌というほど聞いてきたものとよく似ていた。私は息を呑む。

「俺。」

凪斗はゆっくり立ち上がる。

「頼んだっけ?」

「……え。」

「金使えって。」

意味が分からない。

「いや……。」

「言ってねぇよな?」

違う。違う違う違う。違うッ……

「お前が勝手に使ったんだろ。」

その一言で。世界から音が消えた。

「…………。」

何も聞こえない。何も見えない。眩しいシャンデリアも、他宅の喋り声も。何もない、虚無空間。

「俺さ。」

凪斗はため息をつく。

「ホストなんだけど。」

その声は冷え切っていた。

「客が金使うのなんて仕事だろ。」

違う。そんなこと。

「でも……。」

「何?」

「愛してるって……。」

何度も言った。電話で、メッセージで。温かい声で、何度も。何度も。

「言ってたじゃん……ッ」

凪斗は少しだけ首を傾げた。

「あー。」

そして。鼻で笑う。

「マジかよ、本気にしてた?あれ営業。」

営業。その二文字が胸に刺さる。

「え……。」

「ホストが『愛してる』って言うのなんて普通だろ。」

普通。普通……?
私は立っていられなかった。膝から力が抜ける。その場へ崩れ落ちた。まるで、2年前の雨の中のように。

「嘘……。」

笑ってしまう。こんなの、悪い夢だ。そうだ。夢なんだ。

「夢だよね……?」

誰か。誰かそう言って。凪斗は黙ったまま私を見下ろしている。その目には、もうあの日の優しさは欠片もなかった。助けてくれた人も。約束してくれた人も。頭を撫でてくれた人も。全部、そこにはいなかった。
……いたのは。一人のホストだけだった。
私が恋をした”夜霧凪斗”は、最初から存在しなかったのかもしれない。
グラスの中のXYZが、照明を受けて静かに揺れる。さっきまで甘酸っぱくて、大人のレモネードみたいだと思っていた味。もう一度口に含む。さっきと同じ酒のはずなのに。

「……苦い。」

ぽつりと漏れた声は、誰にも届かなかった。
店を出た瞬間だった。冷たい夜風が頬を撫でる。
……いつ、外へ出たんだろう。記憶が曖昧だった。まるで、霧でも掛かったかのように、ぼやけている。足は勝手に動いていた。
誰に呼び止められたのか。誰かが何か言っていた気もする。でも、何一つ覚えていない。
耳の奥では、さっきまでのシャンパンコールだけが何度も何度も反響していた。

「おめでとうございまーす!」

「かんぱーい!」

笑い声。手拍子。祝福。全部が嘘だった。全部。

「……ッ。」

息が苦しい。肺がうまく動かない。気付けば、視界が滲んでいた。ぽたり、と頬に何かが落ちる。涙だと思った。でも違った。
空を見上げる。黒い雲。次の瞬間。ぽつり、ぽつり。
やがて、ザーッという音と共に雨が降り始めた。

「……はは。」

笑ってしまった。懐かしかった。

「また雨なんだ。」

二年前も、こんな雨だった。家を追い出された日。何も持たず、歌舞伎町で泣いていた日。
……そして。彼に出会った日。

「……最悪。」

雨はあっという間に私を濡らした。せっかく巻いた髪がほどけていく。お気に入りのワンピースも、肌に張り付いて重たい。
でも、どうでもよかった。全部。全部、もうどうでもよかった。
私は傘も差さずに歩き続ける。ネオンが雨粒に滲む。赤、青、紫……。色とりどりの光が、水たまりの中でぐちゃぐちゃに混ざっていた。まるで、今の私の頭の中みたいだ。

「営業。」

ぽつりと呟く。

「あれ営業。」

何度も囁かれた「愛してる」。電話越しに聞いた、「早く会いたい」。電話を切る前に聞いた、「おやすみ」。
全部。全部、全部全部。

「仕事……。」

足が止まる。喉の奥が熱い。胃がひっくり返るような感覚。

「……うッ」

私は慌てて路地へ入り、壁に手をついた。吐きそうだった。でも何も出ない。出てくるのは苦しい息だけ。

「なんで……。」

声にならない。頭では分かっている。ホストは仕事だ。色恋営業があることくらい、ニュースでもネットでも見たことがある。
知っていた。知っていたはずなのに。

「なんで私は……。」

信じたんだろう。どうして。どうしてあんなに簡単に。彼だけは違うって。そう思ってしまったんだろう。雨が目に入る。それでも涙は止まらなかった。

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ふらふらと歩いていると、見覚えのある場所へ出た。ビルとビルの隙間。人通りが少しだけ少ない路地。

「……あ。」

ここだ。二年前。私がしゃがみ込んで、泣いていた場所。
あの日と何も変わっていない。壁の汚れも。割れたアスファルトも。雨の匂いも。全部同じだった。
私はゆっくりと膝を抱える。あの日と同じように。冷たい地面へ座り込んだ。

「……私。」

震える声が漏れる。

「何やってたんだろ。」

二年間。働いて、勉強して、資格を取って、残業して。
欲しい服も我慢した。旅行にも行かなかった。友達と遊ぶこともなかった。全部。あの人に会うため。

「……馬鹿。」

笑う。乾いた笑いだった。

「本当に馬鹿。」

昔から勉強はできなかった。運動もできなかった。でも。人を見る目までなかったなんて。私は、自分が思っていた以上にどうしようもない人間だったようだ。

「頑張ったのになぁ……。」

その言葉と同時に、大粒の涙がこぼれた。誰かに褒めてほしかった。資格を取った日。仕事が決まった日。昇給した日。全部。一番最初に報告したかったのはあの人だった。

 「頑張ったじゃん。」

その一言が欲しくて。それだけでよかったのに。

「……全部、意味なかった。」

雨音が返事をする。誰もいない。二年前は、ここへ一人の青年が傘を差し出した。でも今日は違う。誰も来ない。来るはずがない。例え誰か来たところで、もう誰も信じない。それが現実だった。
私は空を見上げる。雨粒が顔に当たる。冷たい。あの日は、この雨が救いへ繋がった。
でも今日は違う。同じ雨なのに。同じ街なのに。同じ場所なのに。何一つ同じじゃなかった。
そして私は、この日初めて知る。人は、夢を失った瞬間には泣けないのだと。涙は流れているのに。心の中だけが、何も感じなくなっていた。
ただ、空っぽだった。
目を開ける。見慣れた天井だった。

「……。」

朝だ。カーテンの隙間から白い光が差し込んでいる。いつもと同じ部屋。いつもと同じベッド。
なのに。何かが決定的に違っていた。私はしばらく瞬きもせず天井を見つめる。

「……夢。」

そうだ。昨日は悪い夢を見たんだ。彼が店を移るって言って。愛してるは営業だって言って。そんな酷い夢。
……そうに決まってる。私は勢いよく身体を起こした。枕元のスマホを手に取る。画面を開く。メッセージアプリ。
 『夜霧凪斗』。
トーク履歴を開く。一番下。
『昨日はありがと😊』
昨日の夜、店を出てすぐ送ったメッセージだった。その下には、小さな文字。"既読"。それだけ。返信はなかった。

「……。」

指先が震える。もう一度。画面を更新する。何も変わらない。もう一度。何も変わらない。

「……はは。」

乾いた笑いが漏れた。夢じゃない。本当に終わったんだ。

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ベッドから降りようとして、足元で何かを踏む。視線を落とす。昨日着ていた紺色のワンピースだった。雨に濡れたまま床へ落ちている。泥が跳ねて裾は汚れ、ファンデーションも襟元に付いていた。

「……ごめん。」

誰に謝っているのか分からない。私はその服を抱き上げる。二年間。この日のためだけに買った服。鏡の前で何度も似合うか確認した服。洗えば着られる。
でも。もう二度と袖を通せる気がしなかった。

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机の前へ座る。引き出しを開く。中には資格証が並んでいた。初めて受かった資格。泣きながら受け取った合格証。昇給した時の辞令。全部、大切にしまってある。

「……。」

一枚ずつ眺める。そのたびに思い出す。

『一個取れたよ。』

『今日昇給したんだ。』

『凪斗なら褒めてくれるかな。』

全部。全部、あの人へ報告するためだった。資格そのものじゃない。仕事そのものじゃない。その先に彼がいたから頑張れた。

「……。」

胸が締め付けられる。

「違う。」

思わず首を振る。

「違う……。」

私は資格を取った。働いた。稼いだ。それは事実だ。彼がいなくなったからって、その努力まで消えるわけじゃない。頭では分かる。
けど。心が追いつかなかった。

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スマホが震える。会社の同僚からだった。

『昨日は誕生日どうでした?😊』

その一文を見た瞬間。指が止まる。どうだった?人生で一番幸せで。人生で一番惨めだった。そんな夜。
なんて返せばいいんだろう。私はしばらく画面を見つめてから、短く打った。

『楽しかったです!ありがとうございました!』

送信。すぐに返事が返ってくる。

『よかったー!』

その言葉が、胸に刺さった。

「……ごめんなさい。」

私はまた、嘘をついた。

________________________
一方その頃。歌舞伎町。

「お前さぁ。」

バックヤードで煙草を咥えた男が笑う。

「昨日のあの子、ガチ恋だったんだろ?」

凪斗はロッカーへ荷物を詰めながら「んー」と適当に返事をした。

「結構泣いてたじゃん。」

「泣いてたな。」

「悪いと思わねぇの?」

少しだけ沈黙が流れる。凪斗は制服のジャケットを畳みながら、小さく笑った。

「思わねぇ。」

「即答かよ。」

「仕事だし。」

その一言だけだった。

「俺は客に夢売って金もらってるだけ。」

ライターを鳴らす。煙がゆっくりと天井へ昇っていく。

「本気にしたのは向こう。」

「でも二年間お前の為だけに生きてたんだろ?」

「だから?」

「いや……。」

「二年だろうが十年だろうが一緒。」

凪斗は淡々と言う。

「俺は誰にも永遠なんか約束してねぇ。」

ロッカーを閉める音が響いた。

「それに。」

彼はまた、小さく笑う。

「店移るって決まった時点で、あいつ切るつもりだったし。」

その笑顔は昨日六花へ向けた冷たい笑みとは違う。仕事の話をする時の、どこか割り切った表情だった。けれど。ロッカーの奥。荷物を整理していた時、一枚のメモが落ちる。

『20歳になったら、一緒に飲む。約束。』

丸めたレシートの裏に、昔何気なく書いた走り書き。

「……。」

凪斗は数秒だけそれを見つめる。そして。

「いらね。」

くしゃり、と握り潰し、近くのゴミ箱へ放り投げた。カラン、と軽い音が響く。それだけだった。

_________________________

同じ頃。私は部屋の窓を開けていた。昨夜の雨が嘘みたいに、空は晴れている。青空。優しい風。鳥の鳴き声。世界は何も変わっていない。

「……ひどいなぁ。」

私だけ置いていかれたみたいだった。昨日まで確かにあった未来が、一晩で消えた。でも、時間は止まってくれない。今日も会社へ行かなきゃいけない。明日も。明後日も。私は生きていく。彼のいない世界で。
それだけが、どうしようもない現実だった。
【続く??多分】

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