目が覚めると、お母さんが泣きながら僕のことを見つめていた。
右手が温かい。
小声で言うとお母さんは更に涙を目のふちに溜めて、僕の目を陸に打ち上げられた魚の如く黒い目で見、瞬きをした。ふちに溜めていた涙は耐えきれずお母さんの膝の上に落ちて布に吸収された。
生きているのに死人の様な顔だ、と思った。
と囁いて僕を優しく抱きしめた。
先程まで叫んで、喚いていた人とは思えないほど優しい。
ところどころ掠れた、でもひどく優しい声で殆ど息を吐くように言った。
お母さんは微笑んで、僕を離して立ち上がった。
.......
お買い物。
お母さんはそう言うけれど、これは嘘をついているときの声色だ。
いつもは優しい、僕を包み込んでくれる様な声をしているけど、嘘をつくときは妙にはっきりと区切りが良くなる。昔からの癖だ。
でも僕は.......。
指摘できる程の勇気が無い。
そして、お母さんは大きい、いつもお買い物する時に使う事などない黒い革製のバッグを腕に下げて、これまたお買い物する時に着る事はないスーツを着て外へ出ていった。
僕は身体に纏う熱に耐えきれず布団に倒れ込んだ。
助けて...。
苦しい...。
気分が悪い...。
逃げたい...。
あれ、逃げたい...?
逃げれば良いのか!
電流が走ったような閃きだ。
僕はこうしてはいられないと思い、重い脚を無理くり動かして荷物も何も持たずに外へ飛び出した。
勿論金の一円も持っていない。無一文と言う奴である。
だが今のこの状況ではそんな荷物とか金なんてものを持っていこうなぞ思いつく筈もないのだ。
僕は外に出られた事による嬉しさを抑える為息をつき、空を見上げた。
奥の方に黒い雲が見えた。少し嫌な予感がした。
その嫌な予感が当たった。
家を出る前より熱くなった額を抑える。
そしてすぐさま僕は手を横に出してテレビで見漫才なんてしてみる。
人は窮地に立つと脳がストレスから逃れようとしてナントカとか言う物質を出してしまい、結果人は目の前の物事を楽観視してしまい、危険な状況になってしまうとか聞いた事があるが、それはこの事かなあ、と急に冷静になってはまた関係のない事を考えてしまう。
と肩を落とした。
すると、
ポツリ、ポツリ。
肩を何かが突いた。
そして段々突かれた部分から冷たい感覚が広がって行く。
それと同時に肩を突いた何かが沢山降ってきた。
しかも運の悪いことに、土砂降りだった。
人生で一桁くらいしか見たことがないかもしれない程度には強い雨だ。
僕は、身体を濡らしてはいけないと思い、力を振り絞って雨宿りできる場所を探して駆けた。
...。
どのくらい走っただろう。もう息も切れ切れで脚も止まったら絶対動けなくなるくらいにはガクガクだ。
しかもここらで屋根のある所と言えば、人の家とかお店くらいだ。
人の家は論外で、残るはお店なのだが...お店に関しては人の迷惑になるだろうからあまり得策では無い。
そして今僕は潰れた店の穴の空いた屋根の下で下品にも脚を伸ばして座っている。
故に、走り回りすぎて、疲れた。
身体はずぶ濡れだというのに、頭から足の先まで熱い。きっと今鏡でも見たら僕の顔は酷いものなのだろう。
顔はどうにもならないので、せめて座り方だけは治そうという事で、体育座りをした。まあ下品という事に変わりはないだろうが、脚をだらしなく伸ばした座り方よりかはマシだろう。
そう自分に言い聞かせて、でもそれでも下品なので背中だけはピンと伸ばして、酷い顔は俯いて隠して。
そうすると、段々頭が真っ白になって、何にも考えられなくなってしまった。
あとは何も考えず、ずっとそこでボーっと座っていた。
気づいた頃には空が橙色と微かな水色のグラデーションになっていた。雨は時々止んだがまた降ってきてしまい、動くタイミングを逃してしまった。
とりあえず今は帰る気もさらさらないので雨が止むまで雨宿りしようと、また顔を俯かせたその時。
知らない男の声が聞こえた。
もう全部どうでもよくなってきた。
どうせ僕がいなくなっても世界は困らないし。
たまには大人しく誘拐されようか。
まさかこれが僕の運命を大きく揺るがす出来事になるなんてこの頃は考えてもいなかった。














編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!