第7話

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2023/02/23 18:24


夢を見ていた。


山の中だった。

月明かりすら差さないような真夜中の山道を、ひたすら走っていた。踝から流れ出る生暖かい血の感覚と、乾き始めた血に引っ付く落ち葉。片方の靴が脱げても、木の根元に躓いて低い崖の下に落ちても、走った。

痛い。
寒い。
怖い。
逃げなきゃ。

肺が痛くても、足が麻痺する程痛くても走った。
身体が芯から震えるような恐怖心が、どんどん足を重くさせる。木の影に隠れるように、両腕を抱えて座り込んだ。

この夢も何度目だろうか。
何度、何度捕まれば、何度殺されればもう見なくなるだろうか。


『いやだ』
『はなして』


結末は変わらないのに、腕を掴まれると抵抗した。
別に生きたいわけじゃない。この恐怖心も、殺されるのが怖いからじゃない。

一人だけ生き残ってしまった事の、後悔。
家族を殺した男に対する途方もない憎悪。
何処にぶつけようにも虚しいほどの、怒りと悲しさ。
寂しくて寒いけれど、誰にも傍にいて欲しくない。
きっと自分が不幸にするから。
傷付けるから。

なのに。
抱き締められたときのこの暖かさは、何だろうか。


『そばにいる』

『大丈夫』


ああ。

あたたかい。

すごく、安心する。










人の寝息で、目が覚めた。
頭や首には温くなった熱冷ましのシートが貼られ、足元の違和感を感じて布団を捲ると、引っ掻き傷を覆うように包帯が巻かれてあった。片手が上手く動かなくてそっと目線を移すと、自分の手を握る大きな手が体温を享受している。その先には、ベッドにうつ伏せて寝る一人の男。それが誰かは、言わずもがな。

テンはそっと身体を起こして、その彼の肩を揺すった。


「…ジャニヒョン」


起き抜けの声は小さい。
軽く揺さぶると、彼はそっと顔を上げて目を開いた。眠たげに瞬きをして、状況を理解するように一点を見つめてからこちらを向いた。ふわりと焦げ茶の髪の毛が揺れている。


「どうして、いるの?」

「……院長に言われて来たんだよ、携帯届けてくれって。じゃあお前が具合悪そうだったから」


ジャニは上体を起こしてそう言った。
首と頭に貼ってある熱冷ましのシートをゆっくりと優しく剥がしながら、テンの目を見て顔色を観察している。患者の容態を伺うようだった。しかし片手を握っていることを思い出しては手を離そうとしたが、テンはそれを食い止めるように指を掴む。


「…体調は」

「平気」

「本当は?」

「………………しんどい」


案外すぐに白状した。
まだ結構辛いのだ。
昨夜は彼の様子を見つつドラッグストアでそれなりに必要な物は揃えたが、市販薬に関しては色々な面を懸念して買うのをやめた。あるのは水分とゼリー、熱冷ましシートだけだ。


「解熱剤は?」

「飲まない」

「辛いままだぞ」

「効かないの」


テンは起こしていた身体を、そっとベッドへ横たわらせつつ言った。解熱剤が効かないのをいつもの事のように言うものだから、ジャニは軽く首を捻って考えるように目線を外した。
風邪や病気諸々から来る熱ならば、解熱剤は効く。効かない場合は主に精神面から誘発される心因性発熱である事が多いのだ。昨日の夜魘されていたのも、ひとつの理由かもしれない。もし本当に原因が心因性のものであれば、看病する人間は絶対に必要だ。生活習慣の規律を良くする以外に対処法がないのに、彼が自分で正そうとするとは思えない。

ジャニは彼の手からそっと手を引き抜いて、ベッドの近くに面したクローゼットを開いた。数ある服の中から適当に黒色の上下を取り出して彼の枕元に置くと、自分が座っていた丸椅子を元の位置に戻しつつ。


「それに着替えろ、汗かいてたから」

「帰るの…?」

「帰らないよ。何か作ってくる、粥なら食えるだろ」

「テンもキッチン行く」

「駄目だ、寝てろ」

「こっそり帰ったりしない?」


ジャニは溜息を押し殺すように目を瞑ってぐるりと眼球を一周させた後、体を起こそうとするテンの身体を倒しつつ「しない」と断言するような声色で言って部屋を出た。

パタン、と扉を閉じ、息を吐く。

昨日の夜のことを覚えていないようで助かった。
何故抱き締めようと思ったのかは自分でも分からない。けれど酷い怯えようで、痛そうに足を縮めながら耐えるように爪を食い込ませ身体を震わせる姿は痛々しかった。喉がしゃくるほど泣いて、ああしなければ泣き止まないとも思った。ほぼ衝動的に彼を抱き締めていたし、あの行動には深い意味もない。
とはいえ、彼の熱に対する慣れきった様子は慢性的なものなのかもしれない。あのマネージャーの青年なら熱だと言われればすぐ来るだろうし、この様子だと大方誰にも言ってなかったのだろう。

ジャニはポケットから携帯と財布を出し、マネージャーの青年が寄越してくれた名刺を出した。

キッチンに繋がる廊下を歩きつつ、電話番号をタップして耳に当てる。

2、3回のコールの後、『もしもし』と声がした。


「急に電話ごめんね、家政夫のジャニなんだけど」

『……?…っああ!この間の…!』

「今忙しいかな?」

『全然大丈夫です、車の中なので』


キッチンに入り、小さめの鍋を出す。
片方の手で携帯を耳に固定しながら、鍋に水を注いだ。


「テンの事なんだけど」

『え、っヒョンに何か…』

「大事にはなってないよ。ただちょっと聞きたいことがあって」


切羽詰まったような、焦りを含む声を出したシャオジュンを落ち着かせるようにそう言いながら、冷凍してあった米を取り出して鍋の中に沈めて火をつけた。


「テンってよく熱出す体質だったりする?」

『あ、この時期だと、よく…』

「昨日から高熱なんだ。もし何か知ってたらと思って」

『あぁ……それが、実は』


一通りこちらの状況を理解したシャオジュンは、申し訳なさそうな声色で話し始めた。

この時期になると、慢性的な熱や悪夢から始まり、不眠症や精神不安定などが見られ始めるらしかった。話してくれる病状から察するに、それは心的外傷後ストレス障害、所謂PTSDに近いものだ。今はまだ表立った症状は出ていないが、日を追う事に酷くなっていくとのこと。睡眠薬の酷使、自傷行為、意気消沈、フラッシュバック。病院に行きたがらないし誰にも言おうとしないから、春が過ぎるまで彼が危険な行為に及んだりしないよう、付きっきりで見守っていた。しかし今回はどうだ、世話を拒否され挙句には春期休暇などを取らされる始末。


『過去に、あったことは…僕もあまり知らなくて』

「大丈夫、教えてくれるだけで有難いよ。今日一日は俺が見るから」

『助かります…、貴方がいると、あの人いつも凄く嬉しそうなので』

「……じゃあまた何かあったら、掛け直していい?」

『はい、全然』


電話の間に切った野菜を鍋に入れ、煮込みつついい具合のところで火を消した。粘り気のない粥を木製スプーンで混ぜて様子を見つつ、皿を取り出して粥を移した。
じゃあまた、と電話を切ると、一気に静寂が辺りを支配する感覚が耳を支配した。

思ったより、深刻なのかもしれない。

スプーンと粥の入った皿を持って、少し早足で彼の寝室に向かう。無駄に広いこの屋敷の廊下は肌寒い。壁に立て掛けられた大きな絵も、何やら奇妙な形の模型も、彼一人が住むこの屋敷の空虚さを埋めるには物足りない。

軽くノックをして部屋に入ると、ベッドの真ん中でしんどそうに寝そべる彼の姿があった。部屋を出る時と変わらぬ位置だ。しかし着替えはしたのか、無造作に捨てられた白いブラウスを取って回収しつつベッドサイドの机に皿を置いた。

昨夜あまり眠れていなかったのか、うつつと目を瞑る彼の肩に優しく手を置いた。


「…寝るか?」


至極小さな声で問いかけたが、テンはジャニの声を聞くや目を開いた。


「食べる」

「無理しなくていい」

「食べるもん」


一度言ったら聞かないのを知っている。
テンが起きようとするのを手伝うように背中を支えると、粥を匙で掬いつつ彼の口元へ寄せた。


「ほら」


小さい口がゆっくりと粥を含んで咀嚼する。
目にかかる前髪を指で避けると、熱で若干充血した白目と大きな黒目が見えた。欠伸の涙で濡れた睫毛が束になっている。口に近づけるたびに止まらず飲み込むから面白くて、どんどん口の中がいっぱいになる彼へ「ゆっくり食べろ」と声をかけた。
細く血管の浮いた手が、布団の上に収まる。悪いままの顔色、だるそうに少し伏せられる瞼。ほぼ毎日見ているから、少しでも辛いのを隠そうとしているのなんてすぐに分かった。


「おいしい」


彼の横顔を見つめていると、不意に顔がこちらを向いた。熱で身体が辛いのに、満足そうに微笑みながらそう言う姿には『貴方がいると、あの人凄く嬉しそうなので』というシャオジュンの言葉が過る。自分の何が彼をそこまでさせるのか、全く分からない。


「…テン」

「ん?なに、ヒョン」

「どうして熱があることを隠してたんだ」


ジャニは、一度手を止めて素朴な疑問を問いかけた。
口の中で粥を咀嚼する彼が、徐々に口を動かす速度を落としながら。


「言っても変わらないのになんで言うの?」


淡々とした態度だった。
言わないという選択肢に特別な意を込めているわけでもなく、ただ彼が当たり前にそう思っているような感覚。真っ黒な瞳には、どこか抑え込まれた感情が渦巻いている気がした。無意識に人を遠ざけ、苦しさに耐えるのが当たり前。
今まで知らなかった彼の内側がどんどん溢れ出て見えるようで、ジャニは眉を寄せてしまいそうな気を抑えた。


「じゃあ、シャオジュンから世話を拒否したのもそういう理由か?」

「え?」


ジャニが作る穏やかな表情とは相反し、テンはぎゅっと眉を寄せて布団を握った。


「何、アイツ…何言ったの?」

「俺が聞いたんだよ」

「信じらんない」


テンは突然布団を避けて自分のスマホを取ると、あれだけ辛そうにしていた身体を容赦なく動かした。ベッド下に足をおろし、素足のまま早足で部屋の外に出ようとする。大方勝手に自分の話をされて癪に触ったのだ。ジャニも言うべきではなかったと思うのも遅かった。
ジャニはそこまで彼の怒りを買うとも思わず、焦ってスプーンを置きながら部屋を出るのを阻止するように彼の手を引いた。さすれば抵抗する力もなく、足から力が抜けてこちらに倒れ込む。すかさず胴体を支えた。


「あの子を怒るな、俺が無理矢理聞き出したんだ」

「っ誰にも話すなって、言ったのに…!」

「教えてくれなきゃ熱の原因も知れなかったろ」

「あんなこと知らなくていい!!」


顔を赤くして、息を荒らげながら彼はそう言った。
立ち上がる力もなく、ジャニの両腕に支えられ。綺麗な黒髪は乱れ、目からは涙が溢れそうなほど膜を張っている。
シャオジュンは善意だったのだからそこまで怒らなくたって。今から彼がどこに行こうとするのかも容易に想像が出来てしまって、彼の体を正面に向けると腰に腕を回して捕まえるように寄せた。


「テン、深呼吸しながら六秒数えろ」

「っなんで、」

「いいから」


テンの後頭部を撫でながら肩口に寄せ、ゆっくりと床に座りながら。彼の小さく深い呼吸音が聞こえ、静かな六秒間が流れる。トン、トン、と背中を叩いた。


「怒るなら俺に怒れ。殴ってくれたっていい」

「…そんなことしないもん」


テンの手が、ジャニの服を掴んだ。

怒りの感情も突発的な行動も、今の彼の身体には毒だ。
シャオジュンに理不尽な怒りが向けられぬ為にも、矛先を変えどうにか落ち着かせなければならない。
ジャニは、テンの身体を抱き上げてベッドに座らせた。まだ少し不服そうに眉を寄せているテンと目が合えば、ジャニは足を折って目線を合わせる。彼の膝に手を置き、またシャオジュンを怒りに駆け出さないようにトントンと拍をとり。


「感情が荒ぶったら六秒数えるんだ、そうしらた落ち着く。わかったか?」

「……ん」


静寂が支配する。
前髪がかかる猫目はじっとジャニを見つめ、大人しくベッドに座らされた身体は動かない。笑みを消した顔立ちは現実と切り離したような寸分違わぬ正確さ。
暫くすると、テンはジャニに上体を預けるように飛び込んで抱きついた。両腕を首に回し、頭を引っ付けてくる。体重をかけられているはずなのに、異様に軽かった。


「ふふ」

「テン…」

「ヒョンがそんなにテンを見つめてくれるの、初めて」

「…………」


今更、突き放す気にもならなかった。
あの話を聞いておいて、こんな嬉しそうな顔を見ておいて。いつか、今より苦しむだろう彼を知っておいて。

ジャニは、何も言わずにそっとテンの背中に手のひらを当てて寄せた。


「…そうか」





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晴れ渡る快晴、ガラス張りの事務所内は清々しい。

しかし、片手に携帯を持って落ち着きなくロビーのソファで項垂れているシャオジュンはどこか不安そうに眉を寄せている。

というのも、シャオジュンを不安にさせている原因は一つしかない。自分がマネージャーを務めるあの彼だ。
朝方に家政夫の彼から電話が来て肝が冷えたが、怪我をしたり睡眠薬の乱用に走っている様子はなかったのが唯一の救いだった。人目見た時から頼もしそうな男の人だったから一日看病に徹してくれるというのは実に有難いし名刺を渡した過去の自分を褒め讃えたいが、さっきの電話で伝え損ねていたことが少々あることには頭を抱えてしまう。

『この話をしたこと、あの人には言わないで下さい』

この一言。


「……終わった…刺される…」


絶望の始まり。
終わりの始まり。

冷や汗をかきながら会議に参加しただけ偉いと思う。その事だけなくても色々と気掛かりなのだ、本当はあの屋敷に飛び込んで様子を見に行きたいほどなのに。
シャオジュンは壮大な溜息をつき、携帯を握りしめた。手のひらの縫い跡が突っ張る。

その時。

ぴた、と首筋に当たる冷たい何か。


「ぅ、わぁ!!」


思いの外大きな声が事務所内に響き、思わず口を押さえて後ろを向いた。肩を揺らして笑いながら片手に缶コーヒーを持つのは。


「ヘンドリー…」

「今日の会議ずっと上の空だったな。ほらこれ」

「あぁ、…ありがとう」


渡された缶コーヒーを受け取ると、ヘンドリーはシャオジュンの横に腰掛けて同じように缶を開けた。相変わらずの端正な顔は、見るだけで少し安心感を覚える。いい意味でも悪い意味でも、テンの整った冷たげな顔とは真逆だ。


「またあの人のことか?」

「…うんまぁ、そうかも」


それしかないけど。
ヘンドリーは、缶コーヒーを飲むシャオジュンの横顔を一瞥したあとに問いかけた。


「シャオジュンはなんで、ずっとあの人の傍にいようとするんだ?」

「…それは、」


後世にも名を残すような絵を描く逸材。
その多彩な才能と引き換え、といったような扱いにくい性格はこの事務所の誰もが知っている。そしてその彼に付きっきりで支えるシャオジュンの優秀さも。どういうわけか十代の頃からマネージャーとしてつけられても、決して投げ出さずに今までやり遂げている。

シャオジュンはヘンドリーの問いに、缶コーヒーを両手で握りながら言った。



「…俺が普通に生きれてるのは、あの人のおかげなんだ」



遡れば何年も前の話だが。




シャオジュンが決してテンを支えることに手を抜かない、唯一の理由。





「みんなは魔女みたいに言うけど、本当は違う」





シャオジュンは、思い出すように少し笑った。





「本当は優しい、天使みたいな人だよ」




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