第8話

日記帳を買いに
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2026/03/01 10:24 更新

 その日私は、歌仙と書類仕事をしている途中でとある事に気づいた。

 あなたの緋名子「あ!まだ松井江に日記帳渡してないわ!」

 提出ボタンをクリックした瞬間に叫んだ私に歌仙がああ、と納得の声をあげる。さすが最古参、理解が早い。

 歌仙兼定「彼には本丸に慣れてもらう事を優先していたからね。バタバタしてて忘れてたんだろう」

 あなたの緋名子「今日買いに行った方が良いわよね?」

 歌仙兼定「今日を逃したら君は先延ばしにするだろうからね。行った方がいいよ」

 あなたの緋名子「何でそこまでわかってるのよ...?」

 歌仙兼定「初期刀だからね。伊達に十年もここにいないよ」

 あなたの緋名子「ですよね...じゃあ松井江に声をかけに行くわ」

 私と歌仙は猛スピードで書類を片付け、松井江と篭手切に割り当てた部屋へ向かった。

 トントン、と襖を叩く音がした。本を読んでいた手を止めて腰を上げ、襖を開けると主と歌仙がそこに立っていた。

 松井江「主、歌仙。仕事はもう終わったのかい?」

 あなたの緋名子「さっき急いで終わらせてきたの。松井江に話したい事があって」

 松井江「僕に?」

 無意識のうちに一歩後ろに下がっていた。以前の本丸での記憶が蘇る。

 昇太「松井、話があんだけど」

 松井江「何だ?」

 昇太「この戦績表さ、もっと丁寧にまとめろよ。何だよこれ?」

 昇太「読むのに半日かかるんだけど。数字多すぎだろ」

 松井江「それが戦績表だろう。僕は詳細に政府への報告を行えるように......」

 反論の声が途中で止まったのは、手の甲をハサミで刺されたからだった。鮮血が畳に滴った。

 昇太「お前俺の話聞いてる?もっと丁寧にまとめろっつってんの」

 昇太「お前は俺の刀なんだから。言われたことやってりゃいいんだよ。物に自由意思なんて必要ないだろ?わかるか?」

 返事ができない。今口を開いたら呻き声が漏れる。

 昇太「返事もできねえのかよ。本っ当にのろまだな」

 松井江「ぐっ...

 手の甲に刺さったハサミをゆっくり回された。傷口が抉られて激痛が走る。

 昇太「戦績表、直しとけよ」

 松井江「...わかった」

 篭手切江「...松井さん、大丈夫ですか?凄く顔色が悪いですよ?」

 篭手切に言われて、初めて自分の呼吸が浅くなっている事に気がついた。目の前が霞んでよく見えない。視界が下がった。膝に一瞬痛みが走って、自分が崩れ落ちたことに気づく。

 歌仙兼定「松井!大丈夫かい!?」

 心配をかけてしまっている。立たなければ。立って...

 立って、どうする?

 思考がぐちゃぐちゃに絡まり始めたとき、肩に人の体特有のぬくもりが触れた。

 あなたの緋名子「松井江、大丈夫よ。ここに居る人達は貴方に酷い事なんて絶対しないから」

 あなたの緋名子「だからゆっくり息をして。ね?」

 松井江「あるじ...」

 僕の肩を撫でながら、主が柔らかく笑う。

 あなたの緋名子「私に合わせて呼吸して。ゆっくりでいいわよ」

 ゆっくり主に合わせて息をすると、少しの間に苦しい感覚は収まった。

 松井江の過呼吸を収めて、改めて向き直る。

 松井江「迷惑をかけて済まなかった。もう大丈夫だ」

 あなたの緋名子「ううん。迷惑だなんて思ってないわよ。私が勝手に世話焼いたの」

 こういう子の特徴として、「すぐ謝る」というのがある。

 審神者に酷い扱いを受けていた刀剣男士は、自分が折れて場を丸く収めようとする者が多い。それは精神面でも、物理面でも。

 だから私は、謝られた時はこう言うようにしている。

 あなたの緋名子「助けてもらった時は「ありがとう」って言うの。悪い事してないのに「ごめんなさい」は文法がおかしいわよ?」

 貴方は間違っていない。悪い事など何もしていない。それを明言されるだけで憑き物が落ちたように表情が晴れる子は多い。

 松井江「そう、なのか...なら、ありがとう」

 あなたの緋名子「うん。どういたしまして」

 笑って頷くと、松井の横で篭手切が小さく頭を下げた。その仕草の意味は「ありがとう」だ。

 歌仙兼定「主、そろそろ本題に入らなければいけないよ」

 あなたの緋名子「そうだった。肝心の目的を忘れるところだったわ」

 松井江「本題?」

 首を傾げた松井江に頷く。

 あなたの緋名子「実は、松井江に日記帳を買いたいの。万屋に売ってるから選んでくれない?」

 松井江「日記帳?どうして?」

 あなたの緋名子「この本丸では全員に毎日日記をつけてもらっているの。もちろん私も書いてるわよ」

 篭手切江「私も書いています。ほら、こんな風に」

 篭手切が自分の文机の引き出しから出してきたのは、深緑色の帳面。表紙に「篭手切江」と書かれたその帳面を開くと、一日のレッスン内容や成果、改善点がびっしり書かれていた。あまりの文章量に松井江が帳面を凝視する。

 松井江「す、凄いな...この量を毎日...」

 あなたの緋名子「篭手切とか歌仙はよく書く方よ。文を書くのが苦手な子は絵日記とかで代用してるし、薬研なんて殆どカルテみたいになってるわ」

 日記と一口に言ってもこれだけ数が揃えば個性が出てくる。

 同じ刀派の兄弟や興味のある刀の観察日記にしている者、訓練や内番の記録帳にしている者、その日に作った料理のレシピをまとめている者、昆虫や植物の成長を記録している者、ファッションのコーディネートをまとめている者等々、挙げ出したらキリがない。

 あなたの緋名子「だから、松井江が書きたいものを書けばいいの。長い文を書くのが苦手ならその日にあった事を箇条書きにするだけでもいいし、何かの記録をつけたいならそうすればいい」

 松井江「僕が書きたいもの...」

 歌仙兼定「ちなみに僕は浮かんだ歌や句を書いているよ」

 あなたの緋名子「歌仙は大分レアケースだから、参考にしなくていいわよ」

 歌仙兼定「酷いね」

 あなたの緋名子「歌と句のノートにしてるのは歌仙と古今と兼さんだけよ」

 そんな事を言いつつ、私の日記は本丸であった事を無差別に書き散らしているだけなので、実は一番節操がない。

 篭手切江「本当に何でもいいんですよ。書いている内に自然と書きたいものが見えてくる事もありますし」

 松井江「...そう、だね。わかった」

 あなたの緋名子「よし。じゃあ本人の承諾が得られたところで万屋に行きましょうか」

 出掛ける準備を手早く済ませて、私達は万屋街に向かった。

 刀剣男士と審神者、その他住人で賑わう万屋街は、よほどマニアックな代物でなければ大抵の物が揃っている。

 私達が行く店は決まっている。万屋街を少し歩いた場所にあるお店。うちの本丸の利用だけでなり立っているような小さなお店は文房具の品揃えが良く、長谷部や長義といった事務方はもちろん、色んな子が帳面や筆を買い足しに来る。

 あなたの緋名子「おばあ、来たよ~」

 店主「いらっしゃいあなたの緋名子ちゃん。今日は何を買いに来たんだい?」

 あなたの緋名子「新しい子が来たから日記を買いにね。この子よ」

 店主「あらあら。これまた綺麗な男の子だねぇ。水色の眼がお空みたいでとっても綺麗」

 松井江「はぁ...?」

 あなたの緋名子「そうでしょう?初めて会った時私もそう思ったの。帳面見ていい?」

 店主「もちろんいいよ。いつもありがとうねぇ」

 おばあに会釈して松井の手を引き、帳面が置いてあるコーナーに行く。赤、青、緑、黄色、菫色、桜色、灰色、白などバリエーション豊富な帳面が揃っている。

 あなたの緋名子「好きなの選んで」

 松井江「好きなもの、と言われても...」

 最初の反応は皆こうだ。意思が制限された環境に慣らされていた彼らは「選ぶ」という行為に多大な時間を要する。

 あなたの緋名子「私はおばあと話しながら待ってるから。決まったら教えてちょうだい」

 主が店主の所に行ってしまって、僕は完全に孤立してしまった。篭手切と歌仙は何故か一緒に来てはくれなかったので、相談する相手も居ない。

 松井江(やっぱり赤、だろうか)

 血を浴び、血を流す事が僕の業だ。自然と赤の帳面に手が伸びる。

 その時、脳裏に数分前の店主と主の会話が過った。

 店主「水色の眼がお空みたいでとっても綺麗」

 あなたの緋名子「そうでしょう?初めて会った時私もそう思ったの」

 空の色。僕の瞳をそう言ってくれた。

 赤はやめにして、水色の表紙の帳面を手に取った。

 松井江「主、決めたよ」

 振り返った主の瞳は、僕の瞳よりも深い青色だった。

 私を呼んだ松井江の手に抱えられていたのは、水色の帳面だった。

 あなたの緋名子「それにするの?」

 松井江「ああ。ダメかな?」

 あなたの緋名子「ううん。好きなものを選んでって言ったのは私だもの。素敵よ」

 松井江「ならよかった」

 松井江の帳面をレジに持っていって会計をしてもらう。

 店主「はい、毎度あり」

 あなたの緋名子「うん。また来るね、おばあ」

 店主「ありがとうねぇ。今後ともご贔屓に」

 松井江「悪いね、買ってもらってしまって」

 あなたの緋名子「だから、謝らないの。それにこれは皆にしてる事よ」

 松井江「皆に?新しい刀を迎える度に、かい?」

 あなたの緋名子「ええ。私達審神者は皆「始まりの一振り」を自分の手で選ぶの。それと同じで、私の本丸では皆の日記帳も最初の一冊は自分の手で選んでもらってるわけ」

 松井江「何故?」

 もう何度も聞かれた事だ。くすっと少し笑って答える。

 あなたの緋名子「貴方達は人間の体を得て初めて「物を所持する側」に立つでしょ?管理は時に面倒で煩わしくて、でも使う内に段々と愛着が湧いてくる」

 あなたの緋名子「そんな気持ちを最初に教えてくれた物に、思い出がたくさん詰まっていたら素敵じゃない?」

 そう言うと、松井江は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。

 松井江「...貴方は、昇太とは全く違う事を言うんだね」

 あなたの緋名子「あれと同類に見られてたなら心外よ」

 少しだけ不満を言って、私は松井江がどこかに行かないようにその色白の手を握った。

 あなたの緋名子「ほら、帰りましょう」

 松井江「ああ。帰ろう」

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