第12話

空虚な女王
30
2022/12/07 14:57

ドアをたたく。応答はない。もう一度ドアをたたく。今度はもう少し強くだ。応答はない。ドアをたたく。握ったこぶしが破裂しそうなほど強く。応答はない。もう一度私はこぶしを握る。次こそは開けてもらいたい。私がドアへと腕をのばしていく。すると、ドアは内側からすんなりと空いた。家主の男が、私を怪訝そうに見つめてくる。休日に何の用だ?今日は仕事休みだろ?とでも言いたげだ。
「分かっているだろうが、今日の仕事は休みだ。毎日一生懸命働いていると聞いている。今日は私と一緒に過ごしてもらう。分かったか?」
家主の男、アンドレイはすぐにドアを閉じて、私を拒絶しようとしてくるので、私は足を挟み込んで強制的に私の話を聞かせてやる。
「これは命令だ。後は分かるな」
アンドレイは頷くと、無理やりドアを閉めようと私の足をちぎらんという勢いでドアを引く。私が足を抜くと、ドアはあっさりと閉まる。相変わらずロシアの冬のように冷たい奴だと思う。きっと私もそうなのだろう。アレクシア、元は人々を守るものを指しているらしい。

何を持って行けばいいのかと聞かれたので、荷物を大量に持つことを前提とした格好と伝えてやった。そうしたら、まさか腰につけるタイプのポーチをつけて、絶対的に両手を開けられるようにしてきた。まだ暑い季節でもないのに半袖を選んできてくれたのも、手を動かしやすくするためなのだろうか。何はともあれ、街で買い物するには微妙に目立つ格好になってしまっているのが絶妙に腹立たしい。もともと目立ちやすい外見なのを考慮してもらいたい。
「アンドレイ、何か気付いたことはないか」
「監視されている可能性がある」
半ば分かっていたが、ため息をついてしまう。だが、視線を理解しているのなら、その理由を伝えておくべきだ。
「では、どうして監視されているような視線を感じるか、分かるか?」
「正体が露呈しかけているか、私だろうな。昔から弱そうに見えるのか、人から見られることが多い」
「外見が目を引くのは知っていたか。それならもう少し季節感にあった格好をしてくれないか、まだ暑い季節ではないだろう」
アンドレイはすぐに返事をしなかった。ちらりと彼の方を見てみると、少し驚いているような表情を浮かべていた。
「故郷は寒かった。私にはこのくらいの気温でも暑い」
「すまなかったな」
私はこう返すしかできなかった。変なところで意図的ではないとこうも調子が狂うものなのか。

イタリアの歴史的建造物の中に存在する最近の店、その不自然に見える調和の中に到着する。ショッピングには最適の、いろんなブランドの店が入る観光スポットだ。ヴェネツィアでも有数の観光地だったはずだ。
「アンドレイ、私はここで今日は必要物資の買う。お前は私について行動し、物資を持ってくれ。それが任務だ」
私はアンドレイの方へ体ごとむけ、彼を指さしながらわざとらしく命令する。軍の上官というものはそういうものだったような気がする。単に嫌いな上司を誇張されたまま覚えていただけかもしれない。アンドレイは短く返事をする。それを確認した私はアンドレイに店の前に待機するように伝え、すぐ近くにあるアクセサリー店に入った。店内の明かりを反射して髪飾りやブレスレットがキラキラと輝いている。別に何かが欲しいわけでもない、着飾る趣味もないし着飾ったところで私は見ないので見せびらかす相手もいない。それでも、人間だったころに何もできなかったからなのか、貴族がきれいな格好をしていたことにいつも嫉妬していたからか、こういった綺麗なものを買ってしまうのだ。なので、私は店員を呼びつけて、最近のはやりの傾向を聞いてみる。店員のお勧めするものを買ってみる。似合ってるかは分からないがきらきらと何かの光を受けて輝いているので、見ていて悪くはない。いくつかお勧めされたものや、見るからに高そうな髪留めやブレスレットを私は選ぶと、指定された金額を払って、店を後にした。店の外ではアンドレイが、私の命令した通りに待っていた。直立して、何することもなく、背筋をきれいに伸ばして、だ。それだからか道行く人にたびたび見られている。綺麗な顔してるし、当然か。
「待たせたな、これ持ってくれ」
アンドレイは私の買ったものの入った紙袋を右手で受け取ると、何も言うことなく手に取り、私に続いて歩き出した。ブランドのロゴの洗練されたデザインの紙袋をアンドレイが手にしていると、何か違和感を覚える。彼には武器の方がお似合いに見えてならない。私は次に服屋に立ち寄った。当然のように着たい服なんかない、高くて綺麗ならなんでもいいのだ。そして莫大な量の金を払って、発生した荷物はアンドレイに持たせるのだ。そうしたら次、また次へと私を着飾らないものを買っていき、全てアンドレイに持たせていく。単調な繰り返しだ。
「次はどこへ行くおつもりで?」
「何か飲まないか?座って話がしたいんだ」
私はアンドレイにコーヒーを近くのカフェに買わせに行き、ベンチで待っていた。何を話すのかなんてあまり考えていない。私の頭はいつも空っぽだ。昔は中身が少しはあったが、今はそれもない。プライドだって、存在しない。ただただ感情の指示するままに動いている。人間なのはガワだけ。
「エスプレッソで良かったか?」
アンドレイは紙コップに入ったコーヒーを手渡してくる。アンドレイに隣に座るように促し、コーヒーを受け取る。
「お前はいらないのか?」
「吐き出すことに抵抗がある」
私はコーヒーを一口飲んで、そうかと答える。それ以外、なんて言ったらいいのか、言葉が出てこない。
「これだけ買って、一体何になるのですか」
アンドレイは感情のない眼で、手に持っているものを見つめている。
「分からない。だが浪費はやめられない、何かを得れば心の空洞は埋まると思っていた。でも何を手に入れても埋まらない。寧ろ心が空っぽになっていくんだ。人間だったころより自由で、やろうと思えば大抵のものは手に入るというのに」
言葉が止まらない。アンドレイは何も答えずにただただ話を聞いていた。私が話し終わるのを待っているかのように。
「それに、何が欲しいのかも分からない。でも、愛とかみたいに不確定じゃないものなのはきっと確かだ。あの人と最後に言葉を交わしたとき、それは確実に満たせたから。じゃあ私はなにが欲しいんだ」
地面へと視線を向ける。こんな風に自分の心と向き合ったのは久しぶりかもしれない。新しい同胞というのはなかなかにいい刺激になるのかもしれない。だがこの刺激は刺すように痛い。あまり好かない。
「……今日はよく話すのですね」
アンドレイは独り言のように言い放つと、荷物をしっかりと握って私の目を捉える。まだ話を続けさせてくれるらしい。
「資本主義の権化みたいとでも言われるかと思ったよ、結構優しいんだな。私の心を抑えておくには、そうやっていろいろ買ってるしかできないんだ。いつか壊れてしまいそうでさ、でも心を壊してしまったらあいつらに迷惑かけるにきまってるだろ?恩はあるからそんなことできないんだ」
「いつから、その資本主義の権化みたいな行動を?あなたも常に富があるわけではないでしょう」
「いつからだったかな、多分だけど大量消費が主流になったころだな。お前の生まれる三十年前くらいと思えばいい。最近だな、思い返してみると」
私はアンドレイの方へ体を傾けてもたれかかる。どうしてこんなことをしているのかは分からない。空っぽな私が満たされるとでも思ったのか。
「アンドレイ、君の心は満たされてるか?大切なものはあるか?大切な人はいたか?」
迷うと思ったが意外なことにアンドレイはすぐに話し出した。
「簡単なことです。私は国のために生きる。祖国亡き今もそれは変わらない。これからも私は祖国に忠誠を誓い、そのころと同じような生活を続けていく。ずっと祖国の人間でいられるように。私の中には、この思い以外何もない。止まった内臓も、何もかも」
体中に血が巡る、私は生きている、それが素晴らしくて堪らない。アンドレイはそう言いたげな表情で語った。氷のように冷たかった赤い眼は、高揚してより血の色を増していた。そうか、アンドレイの中は満たされていて、大切なものを作るパーツとして、祖国を愛しているのか。
「素晴らしい、お前の中には何一つ入りこめそうにないな。それに、抽象的なことは通用しないって聞いてたのに、少し人間らしくなったんじゃないか」
「私は普通に質問に答えただけです。それに私は人間だ。貴方たちほどに生きることに慣れていない」
「生きること……か」
私はコーヒーを飲みつつ、均一に塗りつぶされたかのような青空を見つめる。当たり前のように空を見つめられるようになったのはいつからだろうか。かつては外なんか見るものじゃないと思っていた。今じゃあなかなか悪くないと思える。最初からもっと肩の力を抜いて生きていれば良かったのだ。
「アンドレイ、君も何か飲んでくれないか?私だけ飲んでるのも申し訳ないんだ。何なら金払ってやるから何か買ってきてくれ」
アンドレイがベンチから立ち上がって、何かを買いに行くのを見送ると、私は目を閉じる。少し休みたい、久しぶりに話しすぎてしまったのもあって休みたいのだ。カフェインも効かないらしい。

私という存在ができたのはいつだっただろうか。私の生まれたのは紀元前450年ごろと考えられているけれど、そのころから私という存在があったのかというと分からない。私はただのスパルタを回すための歯車に過ぎなかったのかもしれない。誰かのためではなく私が私としていられるようになったのはいつだったのか、思い出せない。何もかも。
「待ってください、どういうことなんですか!?」
記憶の中の私は、二人の異国人に問いかける。
「だから、もう三回目だからよく聞いてね、君は歳もとらないし死なない、それでその性質は僕たちも一緒。君が一人で孤独にならないように僕とシンで教育してあげるの。おーけー?」
私は後ずさってしまう。こんなに頭がおかしな人たちがいるなんて、怖くてたまらないと思ったに違いない。
「じゃ、じゃあ、私はもう人間じゃないの?一体どうやって生きていけば……?」
えーっとねと説明しようとするアトラをシンが静止を促し
「落ち着いて。別に君の本質が変わるわけじゃない、そんなのそう簡単には変わらないと思うし。それに不安にもなるよね、それも分かる。でも俺らもいるし、一緒に生きてみない」
シンが話を続けようとするのにかぶせて、私はまくしたてる。
「そんなこと言われたって、怖いよ。どこにも行けないじゃないそれじゃあ」
頭を抱えて取り乱す私に、次に答えたのはアトラだった。
「それは違うよ、むしろどこにだって行ける。男にも女にも縛られずにね。こんな国にいなくたっていい、誰かのために結婚しなくたっていい。君は君になるんだ。勿論慣れないと思うし私も怖かった。こんな過酷な目に遭わせてしまうのは申し訳ないが、私たちとその恐怖を共有してくれないか?」
そう言って私に手を差し伸べてきたのだ。あの時の彼はまさに英雄のようだった。彼は否定し続けているが、出まかせでもあんな歯に浮くようなセリフが出てきて、しかも痛々しくならないあたりが人引き付けてやまないのかもしれない。なんて思える。あの日も空は均一に塗りつぶされた青で、海の色もその色をうつしたかのような気持ち悪い色をしていた。

「はぁ……」
ため息が漏れる。もう昔の話だ。私はコーヒーの苦みで昔の記憶をかき消す。あの時、全てを失って彼らに縋りつかなかったら別の未来が待っていたのだろうか、なんて言ってもせいぜい、別の誰かと結婚させられるか、外で何か売って稼ぐかだろう。賑わいを見せるショッピング街の方を見てみると、アンドレイが戻ってくるのが見えた。
「ありがとな、私の頼みを聞いてくれてさ」
「命令を遂行したまでです」
アンドレイは再び私の隣に座ると、飲み物に口をつける。匂いからするとコーヒーだろう。
「何飲んでるんだ?」
「あなたに渡したものを同じです」
私は頷いて、アンドレイの方を見る。本当にきれいな人と思う。故郷の神々もこんな風なのだろうか。短く切られているがまっすぐと伸びていたのだろう太陽の光を受ける髪に、同じ色をした長いまつ毛が風にかすかに揺れているのは、なんとも欲しくなってしまう。自分の外見に執着しなくなってきたと思っていたにも関わらず。
「お前、若いころはモテただろ。いやそうに違いないな」
アンドレイのコーヒーを飲もうとしていた手が止まる。そして少し考えた後
「こんな外見で女性に好かれると思うか?兄と弟には告白する方もいたが、私には全然だったよ」
「お前の祖国の女は見る目がないな。お前なかなか悪くないと思うぞ」
アンドレイは喜ぶとは思っていなかったが、呆れたようだった。
「からかっているのですね。面白くないですよ」
「悪かったな、だがお前の思ってる以上にお前は素敵だぞ。見た目は」
アンドレイは何も言うことなく私を見つめている。その様子はなにを言ったらいいのか分からずに困っているようにも感じられた。
「ほめられたことないのか?それとも分かりにくいだけで照れてるとか?」
「この後はどこに行くつもりで。命令には従います」
アンドレイは荷物を私に見せつけるようにもう一度持ち直す。同時にこんな話はやめてくれというようだった。
「そうだな、もう少しここで話したらやっぱ帰るよ。少しだけだが、私の中が満たされたような気がするよ」
アンドレイは短く返事をすると、濃く抽出されたコーヒーを少しずつ飲みはじめた。

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