雲のない夜空に浮かぶ半月の明かりが、室内を照らす。東京の中心地にあるこのビルからは、大気の汚染や光害に邪魔をされて星の一欠片も見えやしない。
昔、陽がそれを残念がっていたのを覚えている。というのも、どうやら孤児院に来る二年程前までは北海道の田舎にある母親の実家で暮らしていたらしい。幼少期故に既にそこでの生活の記憶はあまり無いが、母親と手を繋ぎ歩いていた夜道で何気なく上を見上げた際に広がっていた満点の星空は、今でも鮮明に脳裏に焼き付いて忘れたくても忘れられないと話していた。
そんな約束をして、指切りまでしたのに。結局果たされる前に陽とあなたの下の名前は最後に淀んだ夜空を見上げて、星を映すはずだった瞳を閉じてしまった。
月明かりに照らされた顔は生白く、まるで死体のようだ。やはり生きてるなんて嘘なんじゃ、と不安にかられ、この部屋に来てから何度も行っている作業をまた繰り返す。
胸に耳を当てて目を瞑る。聞こえるのは秒針を刻む音、頬と毛布が擦れる衣擦れの音。そして、陽の鼓動が脈打つ音。陽とあなたの下の名前あなたの下の名前が生きているという証。
数分前まで荒んでいた心はすっかりとなりを潜めて、今はとても穏やかな気分だった。
死者が生き返ったなどという有り得ない話に縋るほどイザナは病んでいない。しかし実際にこうして目にしてしまえば信じる他なかった。
人が一番最初に忘れるのは声だそうだ。数年前までは繰り返し脳内で再生出来ていた陽の声は、もう分からない。言葉は覚えているのに、それを紡ぐ音は果たして本物なのか確信を持てない。イザナは怖かった。自分の意志に関係なく時間が陽とあなたの下の名前の記憶を奪っていく。忘れたくないのに。忘れては駄目なのに。声が無くなり、言葉も消え、次は何が失われてしまうのだろう。
何度も向けてくれた向日葵のような笑顔と儚い笑顔さえも朧気になっているのを、イザナは認めたくなかった。
頬に触れる。指先から熱が伝わる。
記憶の中のぼんやりと浮かぶ陽とあなたの下の名前の顔にピントが合う。
掛けられたタオルを捲ると、陽が着ていた血塗れの特攻服の代わりに着せられた清潔なシャツが姿を現した。あなたの下の名前の方は、ネグリジェを来ている。陽たちに覗く首筋や手首は相変わらず細い。折れちまいそうで怖いとモッチーに言われていた頃と変わらない。
イザナはベットの上に身を乗り上げ、真っ白なシーツに膝を付いて陽の体を跨いだ。軋むスプリングは無視しシャツのボタンに手をかける。一つ、そしてまた一つ。イザナは昔、こんなふうに孤児院で幼い陽の着替えを手伝っていたなと思い出していた。あなたの下の名前は、自分で着替えていたけど。全てボタンを外したシャツの前を音もなく開ける。現れたのは死体のように青白い肌と、あの日の弾痕。心臓の上と逆側にも一つ。イザナの腹にあるものと揃いの傷跡。
褐色の指先が壊れ物を扱うかのように優しく触れる。
イザナは陽とあなたの下の名前を見て
何故生きているのか、どこから来たのか、これからどうなるのか。何一つ分からない中、それだけは揺るがない真実だった。三人が出会った時から、その名を呼んだ時から既に陽とあなたの下の名前はイザナのものなのだ。
命を懸けて出来た傷跡がそれを証明している。
心臓の上に咲く歪な愛の痕に、イザナは口付けを落とした。















編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!