病院の廊下は、音がない。
正確には、音はあるのに、全部が吸い込まれていく感じがする。
スニーカーの底が床に当たる音。
自動ドアの低い唸り。
遠くで鳴る、機械のアラーム。
そのどれもが、
ここに来る覚悟を、何度も揺さぶってきた。
ポケットの中で、スマホを握りしめる。
ゆずから送られてきた、短いメッセージ。
今日、検査日。
夕方、廊下出るかも。
それだけ。
――会えるかもしれない。
――会えないかもしれない。
どっちでも、来るしかなかった。
交通費とか、そんなのどうでも良かった。
お金でどうにかなるものに、情なんて湧かない。
角を曲がった、その瞬間だった。
白いカーテンの向こうから、
看護師に付き添われて歩いてくる人影。
一歩。
二歩。
分かった。
顔を見る前に、分かった。
歩き方。
少し内側に入るつま先。
無意識に、左手をかばう仕草。
「……あなた」
声に出すつもりはなかった。
でも、喉が勝手に動いた。
彼女は、少し遅れて顔を上げた。
目が合う。
――あ。
そこにあったのは、
知らない人を見る目だった。
一瞬、時間が止まる。
胸の奥で、何かが落ちる音がした。
あなたは、ほんの少し首を傾げた。
困ったような、警戒したような表情。
「……?」
その顔が、
あまりにも丁寧に、他人だった。
呼びたかった。
名前を。
でも、医師の言葉が頭をよぎる。
進行段階では、「知っているはずの人」を認識できなくなることがあります。
――今、俺が名乗ったら。
――それは、あなたの世界を壊す。
「……人違い、ですか」
彼女が、そう言った。
その声。
少し高くて、でも確かに、あなたの声。
心臓が、ぎゅっと縮む。
「うん」
精一杯、平静を装って答える。
「ごめん」
本当は、謝りたいことが多すぎた。
忘れられたこと。
会いに来たこと。
それでも離れられないこと。
全部、飲み込んだ。
すれ違う瞬間。あなたの肩が、ほんの少し震えた。
気づいた。
身体が、先に覚えてる。
記憶よりも前に、感情よりも前に。
立ち止まりそうになる足を、無理やり動かす。
振り返ったら、
きっと、崩れる。
数歩進んでから、耐えきれずに、ほんの一瞬だけ振り返った。
は、立ち止まっていた。
胸のあたりを押さえて、苦しそうに息をしている。
呼びたかった。
駆け寄りたかった。
でも、それは“俺のため”だ。
だから、しなかった。
エレベーター前
壁にもたれて、深く息を吐く。
手が、震えていた。
「……大丈夫だ」
誰に向けた言葉かも分からないまま、呟く。
忘れてもいい。
そう書いたのは、俺だ。
だったら――
忘れられる覚悟くらい、持て。
それでも。
ポケットの中で、のノートと同じ文言を書いたメモが、
指に当たった。
その時は、また好きにさせる
「……時間かかっても」
声が、少し掠れた。
「俺は、ここにいるから」
エレベーターの扉が閉まる。
白い廊下が、細く切り取られて、消えた。












編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。