第55話

謝りたいこと
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2026/02/09 14:41 更新



病院の廊下は、音がない。



正確には、音はあるのに、全部が吸い込まれていく感じがする。



スニーカーの底が床に当たる音。



自動ドアの低い唸り。



遠くで鳴る、機械のアラーム。



そのどれもが、



ここに来る覚悟を、何度も揺さぶってきた。



ポケットの中で、スマホを握りしめる。



ゆずから送られてきた、短いメッセージ。



今日、検査日。



夕方、廊下出るかも。



それだけ。



――会えるかもしれない。



――会えないかもしれない。



どっちでも、来るしかなかった。


交通費とか、そんなのどうでも良かった。


お金でどうにかなるものに、情なんて湧かない。



角を曲がった、その瞬間だった。



白いカーテンの向こうから、



看護師に付き添われて歩いてくる人影。



一歩。



二歩。



分かった。



顔を見る前に、分かった。



歩き方。



少し内側に入るつま先。



無意識に、左手をかばう仕草。



「……あなた」



声に出すつもりはなかった。



でも、喉が勝手に動いた。



彼女は、少し遅れて顔を上げた。



目が合う。



――あ。



そこにあったのは、



知らない人を見る目だった。



一瞬、時間が止まる。



胸の奥で、何かが落ちる音がした。



あなたは、ほんの少し首を傾げた。



困ったような、警戒したような表情。



「……?」



その顔が、



あまりにも丁寧に、他人だった。



呼びたかった。



名前を。



でも、医師の言葉が頭をよぎる。



進行段階では、「知っているはずの人」を認識できなくなることがあります。



――今、俺が名乗ったら。



――それは、あなたの世界を壊す。



「……人違い、ですか」



彼女が、そう言った。



その声。



少し高くて、でも確かに、あなたの声。



心臓が、ぎゅっと縮む。



「うん」



精一杯、平静を装って答える。



「ごめん」



本当は、謝りたいことが多すぎた。



忘れられたこと。



会いに来たこと。



それでも離れられないこと。



全部、飲み込んだ。



すれ違う瞬間。あなたの肩が、ほんの少し震えた。



気づいた。



身体が、先に覚えてる。



記憶よりも前に、感情よりも前に。



立ち止まりそうになる足を、無理やり動かす。



振り返ったら、



きっと、崩れる。



数歩進んでから、耐えきれずに、ほんの一瞬だけ振り返った。



は、立ち止まっていた。



胸のあたりを押さえて、苦しそうに息をしている。



呼びたかった。



駆け寄りたかった。



でも、それは“俺のため”だ。



だから、しなかった。



エレベーター前



壁にもたれて、深く息を吐く。



手が、震えていた。



「……大丈夫だ」



誰に向けた言葉かも分からないまま、呟く。



忘れてもいい。



そう書いたのは、俺だ。



だったら――



忘れられる覚悟くらい、持て。



それでも。



ポケットの中で、のノートと同じ文言を書いたメモが、



指に当たった。



その時は、また好きにさせる



「……時間かかっても」



声が、少し掠れた。



「俺は、ここにいるから」



エレベーターの扉が閉まる。



白い廊下が、細く切り取られて、消えた。




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