あなたsaid
会社の給湯室。
コーヒーカップに湯を注いでいた私は、背後からかけられた声に思わず肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこに立っていたのは同期の矢花黎だった。
少し癖のある黒髪。
腕まくりしたシャツの袖からは男らしい腕が覗いていて、親しみやすい笑顔を浮かべてこちらを見ている。
矢花は苦笑しながら、私の持っていたカップをひょいと取り上げ、代わりに温かいほうじ茶のペットボトルを握らせてくれた。
彼の言葉には、大輝の持つ「熱」とはまるで違う、どこか頼もしくて健やかな優しさがあった。
矢花とは入社以来の同期で、仕事の愚痴や他愛もない雑談を言い合える数少ない友人だ。
真面目で仕事もでき、周りからの信頼も厚い。
大輝のような不条理な我が儘も言わなければ、私の心を不必要に乱すような真似もしない。
まさに「健全な世界」の住人。
矢花は真っ直ぐな瞳で、心配そうに私を覗き込んできた。
その距離感は、踏み込みすぎず、けれど放っておけないという温かな誠実さに満ちている。
(悩み事……)
『大輝のこと』
なんて、口が裂けても言えるはずがない。
バンドマンの男を家に住まわせ、彼女でもないのに尽くし、彼の気まぐれに振り回されて疲弊しているなんて、まともな社会人の矢花に話したら呆れられるに決まっている。
矢花はポン、と私の頭を一瞬だけ優しく叩くと、
と言って給湯室を出て行った。
残された私は、手元にある温かいほうじ茶を見つめる。
矢花のくれた優しさは、とても心地よかった。
息が詰まるような大輝との暗闇の世界から、一瞬だけ陽の当たる場所に引っ張り出されたような、そんな解放感。
(私、何をやってるんだろう……)
ちゃんと働いて、誠実に接してくれる矢花のような人と一緒にいれば、きっと私はもっと穏やかで普通に幸せな日々を送れるはずなのに。
それなのに、スマホの画面を付けると、大輝からのメッセージが届いていた。
通知画面に並ぶ、素っ気なくて勝手な文字。
溜め息をつきながらも、私の指先は無意識に
「19時には帰るよ」
と返信を打っていた。
矢花のくれた健康的な温もりと、大輝の待つ怠惰で暗い部屋。
自分がどちら側に足を踏み入れているのかを突きつけられ、私の胸の奥に、新たな迷いの影が落ち始めていた。















編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。