第3話

第一章 一節
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2021/11/17 13:04
俺の夫は、名を一ノ瀬明仁といいます。

歌や文に明るく、和やかな方でした。なんでも思ったことを正直に喋るという欠点はありましたが、その無邪気さが俺を苛立たせることは…まあ、それほどではありませんでした。

遠地へ赴任していた父の代わりに、兄たちがこの結婚を進めてくれましたが、結局のところ、俺と明仁を結びつけたのは互いの父親でした。

俺の父は歌人の匠で、明仁の父もまた、参議の一ノ瀬匠だったのです。

この二人の匠は仲が良く、俺と明仁も、あちらの匠、こちらの匠、などと、互いの父が同名であることを面白がったものです。

共通するものがあるほど結ばれやすいのが世の常で、これが、俺と明仁を親密にさせ、やがて夫婦の縁を持つきっかけとなったのでした。

俺は常々、自分が最も愛し、かつ相手が俺を最も愛する、そういう相手でなければ結婚はしないなどといい、兄たちが勧める相手を頑として拒んでいました。

一方で父は赴任先から、俺の夫を探すよう兄たちに命じており、兄たちは、これで父からうるさくいわれずに済む、などといって胸をなで下ろすのでした。父がなぜそうも俺の結婚を急がせたのか。それを悟ったのは、父が亡くなった後のことです。父は、自分の寿命をうすうす察し、俺の生活の先行きを案じていてくれたのでしょう。

そんな父の思いも知らず、俺はさる貴人との辛い恋をしたばかりでしたが、そんなことはおくびにもださず、明仁から届けられるようになった歌に返事をしていました。

明仁も、俺の恋について察していたようですが、むやみに恋の競走に血眼になる、といった殿上人の方々がよく見せるような態度をあらわにすることもなく、穏やかに俺たちは結ばれました。

父が亡くなったのは、その直後のことでした。

そしてそれからしばらくの間、俺は異様なほどの不安に襲われるようになったのです。

毎年の除目の季節に、父が官位を授けられるのを待って宴を催していた頃とは、まったく異なる不安でした。

宴を単純に喜んでいた子供のころの俺は、無位無官のまま結局は悄然とするほかない父に、ぞっとするような虚しさを感じました。いつも明るく機知に富んだ父が、猟官の執着をあらわにすることで、まるで別人のように見えてしまうことへの不安だったのです。

ですがその父が亡くなり、俺はようやく、自分自身の生活が全て父によって与えられ、守られてきたことを身に沁みて悟ったのです。

むろん、ただちに窮乏するわけではありませんでしたし、夫がいるのです。父を喪った悲しみはともかく、今後の生活に対する不安までは抱く必要はないはずでした。

ですが、これもまた前世の因縁でしょうか。俺はいずれ夫も喪うのではないか、という予感じみた不安に襲われるようになったのです。

事実これは現実となるのですが、当時はまだ明仁も壮健で、俺の不安を一笑に付し、

「ならば子を沢山作ろう。君の頭の良さと、俺の顔の良さを持った子を。そうすれば子が大人になったとき、夫の私に代わり、君を養ってくれるぞ。」

などと、ぬけぬけといったものです。

確かに、明仁は容姿に恵まれていましたし、参議の子として恥じぬ品の良さを持ってはいました。ですが、同時にこれは、その頃、関白に就かれた成清様の受け売りでもあったのだと、のちに俺は知りました。

成清様は、妻を選ぶとき、このように考
えたのだそうです。

「わたしは家柄もよく、財産も豊富にあり、また何しろ顔かたちもよければ、気品まである。ではいったい何が欠けているのか。よくよく考えたところ、どうもわたしには、知性、休養、博識といったものが足らないようだ。要するに、頭がよくない。」

思わず呆れてしまうようなおっしゃりようですが、成清様は完全に本気でした。

「よし、わたしは頭のよい人と夫婦になろう。わたしの子たちには、ぜひ親のよいところだけを受け継いで欲しいものだ」

ということで、紫雲帝ののちに即位された誠情帝に仕える、蘭内侍あららぎのないしこと蘭伊予あららぎのいよ様に、恋をしたのだそうです。

確かに伊予様は、それはもう優れた御方でした。その漢才は抜群で、名だたる女官の中でたちまち筆頭と目されるようになった御方なのです。

ですが何しろ成清様に比べて、身分が釣り合いません。それを成清様は、正妻に迎えようとしたのです。このため伊予様の両親ともに気後れし、結婚に反対したとか。

しかし、成清様は気にもしません。これはと見定めたならば一路これあるのみと追い求め、なんでも手に入れてしまうのが成清様という人であるのです。

もちろん成清様の念願には、我が子を帝の中宮に、という野心がおありでした。そのために帝を魅了するような子を産んでくれるであろう、優れた方を伴侶としたかったのは当然のことなのです。

そんな思惑があったとはいえ、そもそも人の魅力というものを追い求めた結果、この恋は俺が知る中でも特に素晴らしいものの一つとなりました。もちろん俺が知る限り、最も気高い恋をしたのは俺のあるじたちです。そしてそのあるじたちの両親である伊予様と成清様もまた、俺にとっては理想ともいえる恋を成就させたのでした。

互いにないものを尊重し、求めあったお二人が心を移ろわせることは、ついになかったのだと俺は思います。

ともあれ、これは成清様と伊予様のお話です。俺のほうはといえば、夫の明仁が何をいってくれようと、結局のところちっとも安心しませんでした。

そしていつしか、誰かを頼って安心させてもらうということ自体、間違ってると考えるようになったのです。

誰かに安心を求める限り、今度は、その誰かを喪うことを恐れ、不安に苛まれてしまう。では、どうしたら不安を消せるのでしょうか。普通なら世の無常を悟って仏にすがるところでしょうが、俺はいってみれば、己にすがったのです。

父の訃報が届いてのち、俺はますます頻繁に人と文のやり取りをするようになりました。歌や文はいつも─今にいたるも、ずっと─俺の不安を宥めてくれました。

自分は孤立してはいけない。女房としていつでも出仕できる。あるいは夫が働きやすいよう、知己の人々に夫婦ともども快く思ってもらえるよう務めている。そういった安心以上に、真っ白い紙に何かを書くということ、詠むということそのものが、もっと面白いこと、美しいもの、価値あるものへと俺を導いてくれる気がするのです。

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