第9話

九話
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2019/08/18 09:09 更新
 謎を解いたふたりは、依頼人の住居をあとにした。
 魚屋への道を歩きつつ、アリスはおずおずと尋ねる。
八代アリス
八代アリス
あの……本当の話、ぜんぶ魚屋さんにするつもりなんですか?
影宮
影宮
当然だ。探偵が隠蔽工作をするわけにもいかないだろう
八代アリス
八代アリス
でも……そうしたら、美波ちゃんが怒られちゃうことに……
 影宮はアリスの前に立ちはだかった。
影宮
影宮
悪いおこないに罰が与えられるのは当然だ。それには年齢も性別も関係なければ、悪意の有無も関係ない。おこなったことがすべてだ。やったことは取り消せない。それが人間の世界のことわりというものだろう。
それとも、なんだ。悪意がなければ、犯人が幼い子供であれば、すべての悪行は慈悲で水に流せとでも言うつもりか? 今回はこの程度で済んでいるが、事がもっと大きくなってもお前はそうやって加害者を庇うのか? 真に守られるべき被害者を守らずに
八代アリス
八代アリス
……そ、れは……
 アリスはくちを閉ざす。
 影宮の言うことは正しい。正しい――のだろう。

 だが、アリスはどうしても、ひとりぼっちで公園にいた美波の悲しそうな顔が忘れられない。彼女は自らのおこないを悔いていた。あれが嘘偽りだとは、アリスには思えない。

 後悔に表情を翳らせる幼い少女に手を伸ばすことすら、許されないとでも言うのか。影宮が言う人間の世界のことわりとは、そんなにも無情なものなのだろうか。
 アリスは俯いて思案し、そうして強気に顔を上げた。
八代アリス
八代アリス
……その鍵、私が魚屋さんにまで届けにいきます
影宮
影宮
ほう。どうするつもりだ
八代アリス
八代アリス
なんでもいいじゃないですか
影宮
影宮
偽善活動でも、おこなうつもりか
 彼の台詞に、アリスの感情が急激に昂る。
八代アリス
八代アリス
偽善の、なにがいけないんですか! 正しいことを全部魚屋さんに伝えて美波ちゃんを寂しいままにしておくのが善で、そんな美波ちゃんを庇うのが偽善なんですか?
影宮
影宮
そうだ
八代アリス
八代アリス
だったら――
 アリスは強くこぶしを握った。
八代アリス
八代アリス
……だったら、私は喜んで偽善活動とやらをおこないますよ。寂しそうにしてる一人の女の子も救えない善なんて――私はいりません
 鋭利なアリスの視線と、冷ややかな影宮の視線がぶつかる。アリスは決して目を逸らさなかったし、影宮も同様に目線を外すことをしなかった。
 そうして、どれだけ睨み合っていたか、不意に影宮がため息をつく。
影宮
影宮
……勝手にしろ
 呟いて、彼はハンカチに包んだ鍵をアリスに放ると、背中を向けて去っていった。
 そんな相手を見ながら、アリスは受け取ったハンカチを握り締める。

 今から己がおこなうことは、影宮が言う通り、たしかに偽善なのかもしれない。それでも、偽善だとしても、アリスは美波にあんな顔をしてほしくはないのだ。
 アリスはひとり、魚屋に足を向ける。

 やるからには、偽善を貫いてやろう。
 自分には、巧みな話術もなければ優れた推理力もない。故に、それくらいの心持ちで挑まなくては、己の信念にすらも負けてしまいそうだった。
八代アリス
八代アリス
……よしっ
 自身を鼓舞する小さな声が、空に溶ける。
 ここから先は探偵助手としての活動ではなく、八代アリスとしての活動になるのだ。

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八代アリス
八代アリス
すみませーん
 魚屋の入口の扉を、アリスは控えめにノックした。
 すると、店の奥でなにかを探していた様子の男性が顔を上げて、アリスに近付いてくる。彼が魚屋の店主だろうか。
 男性は内側の鍵を外して、ガラス戸を開けた。
男性
あ、申し訳ない……。今日は営業していないんですよ。また後日にでも――
八代アリス
八代アリス
いえ、そうじゃないんです
 述べて、アリスはハンカチをひらいて中の鍵を見せる。
男性
……これは……! こ、これをどこで?
八代アリス
八代アリス
えっと……。あの、やっぱりこれは、魚屋さんのものだったんですか?
男性
はい。大事なものが入っている棚の鍵で……。今日、気付いたらいつもの場所からなくなっていたんです。それで、ずっと探していて……
 鍵を受け取った男性は、安堵の笑みをうかべた。
男性
本当に、ありがとうございます。なんとお礼を言ったらよいやら……。でも、いったいどこにあったんですか? 常連の方……では、ないですよね
 不思議そうな面差しを作る相手に、アリスは罪悪感を覚える。
八代アリス
八代アリス
えーっと、それは……。あのー、ぐうぜん拾ったっていうか……
男性
拾う? どこに落ちていたのです?
八代アリス
八代アリス
え? あ、ええと……
 アリスはしどろもどろになった。そもそも、意気込んでここまで来たものの、肝心の言い訳の台詞を考えてきていないのに今さら気が付く。加えて、アリスは嘘をつくのが得意ではなかった。と言うより、正直に告白してしまうと、非常に苦手なのであった。

 適切な言い訳を探すものの、脳内からはふさわしい言葉は浮上してきてくれない。
 眼前の魚屋の店主はぱちぱちと瞬きをして、アリスをじっと見つめてきていた。

 背中に嫌な汗が滲み始める。どうしようか。このまま走って逃げ出してしまおうか。
 そんな思考が頭をもたげた、そのときだった。
美波
違うの!
 幼い声が、店の奥から響く。
 見ると、男性の向こうに美波が立っていた。影宮の推理通り、やはり魚屋の娘なのだった。
男性
……美波……。違うって……?
 少女はいくらか躊躇したのちに、弱々しい声で告白する。
美波
それ……美波がなくしちゃったものなの……
 彼女が小さな足で、アリスと男性に歩み寄ってきた。
美波
美波がね、お魚切ってる途中でパパがママのところに行ったときにね、お魚のくちの中に鍵を隠したの。パパ、びっくりするかなって。そしたら……
男性
ひょっとして、それを猫が……? だ、だが……どうして、そんな……
美波
……ごめんなさい……
 男性は膝をついて美波と目の高さを合わせると、娘の肩を優しく撫でる。
男性
謝るだけじゃ、わからないだろう。お前、今までこんなこと、したことなかったじゃないか。なのに、どうして今日に限って……
 少女の顔が歪み、涙で瞳が潤んだ。彼女は声を震わせる。
美波
パパが……お魚から出てきた鍵にびっくりしたら、美波とお話してくれるかなって……
 男性が息を呑んだのが、アリスにはわかった。
 美波の双眸から、大粒の涙が零れ落ちる。
美波
美波ね、この前の学校のテスト、頑張ったんだよ。だから、パパがお話してくれたら、それ見てもらおうと思って……
男性
……美波……
美波
猫さんが持っていっちゃうなんて、思わなかったの……。ごめんなさい、パパ……ごめんなさい……
 謝る娘の小さな体を、父親の長い腕が抱き寄せた。少女の声の震えが伝染したかのように、男性の声までもが震える。
男性
パパのほうこそ……お前がこんなに寂しがってるのに、全然気付いてやれなくて……。ごめんな……
 父親の謝罪になにかの留め金が外れたのか、美波は相手にしがみついて大声で泣き出した。
 そんな幼い少女の感情の吐露は、しばらく続いた。

 そうして、その声が落ち着くまで待った男性が、美波に優しく語り掛ける。
男性
……美波、今度のお休み、パパとママと美波でどこかお出かけしようか
美波
ほんと……?
男性
ああ。最近、お出かけ出来てなかったもんな。どこか行きたいところ、あるか?
美波
動物園! あ、でも遊園地も……ううん……
 迷っている様子の娘に、父は微笑んだ。
男性
皆で相談して、どこに行くか決めようか
美波
うん!
 男性はアリスに振り返る。
男性
あの、鍵のこと、本当にありがとうございます。どこかから見つけてきてくださったんですよね……?
八代アリス
八代アリス
えっと……まぁ、そんな感じです
男性
今日、ずっと探していたんです。妻のぶんまで、僕からお礼を言わせてください。ありがとうございます
美波
お姉ちゃん、ありがとう
 アリスに礼を述べた少女の面持ちは、笑みで彩られていた。公園で会ったときの翳りは、もうどこにも見受けられない。
 その事実が、アリスをも笑顔にした。
八代アリス
八代アリス
いいえ……。少しでもお役に立てたのなら、それで充分です
男性
あ、よかったら、なにかお礼を……
八代アリス
八代アリス
いえいえ! 鍵は本当にたまたま見つけただけっていうか……えっと、とにかく私はなにもしてませんので!
 鍵は依頼主である田中の家の庭にあり、謎を解いたのも影宮であるので、嘘ではない。
 礼をしようとする男性にアリスはやや強引に別れを告げて、店を出た。

 時刻はすっかり太陽の落ちる頃合いとなっており、夕陽の赤が鮮やかに町を染めている。家も、道も、木々も、自分も、例外なく落日の庇護下にあった。
 不思議と妙に清々しい気分になって、アリスは伸びをする。
八代アリス
八代アリス
ううーん……
影宮
影宮
おい
八代アリス
八代アリス
へ?
 後ろから声がして振り返れば、出し抜けに小さなビニール袋が投げられた。
 軽いそれを受け止めて中を確認すると、入っていたのはいくつかの駄菓子である。

 袋が飛んできた方向から、影宮がイカをかじりながら歩いてきた。空いた手にはビニール袋が提げられており、こちらにも駄菓子が入っている。
影宮
影宮
どうだったよ
八代アリス
八代アリス
どうって……。も、もちろん一件落着ですとも
影宮
影宮
ふん。どうせ、あの幼女が自供したんだろ
八代アリス
八代アリス
なっ、なんでそのこと……! っていうか、幼女とか自供って言い方やめてくださいよ
 受け取った駄菓子の入った袋を、アリスは改めて見やった。
八代アリス
八代アリス
……で、影宮さんはなにしてたんですか
影宮
影宮
あそこの駄菓子屋にいた
 彼が指差す先には、一軒の古い駄菓子屋がある。あそこからなら、たしかに魚屋でのやり取りを確認することも可能だろう。
影宮
影宮
用は済んだな。帰るぞ
 短く言って、彼はさっさと歩き始める。アリスもそれに従い、足を進ませた。
 袋から細長いビニールに入っているゼリーを取り出し、それに歯で穴をあけて中のゼリーを吸いつつ、影宮の隣を歩く。
八代アリス
八代アリス
……美波ちゃんとお父さん、無事に仲直りしましたよ
影宮
影宮
そうか
 彼の返答ののち、僅かな沈黙が流れた。
 夕陽によって出来る濃厚な影はふたりの前方に伸びており、アリスは自分の影が影宮の影に並んでいる光景を、不思議な気持ちで眺める。

 遠くから、遮断機の音が響いてきた。続いて電車の走る音が聞こえ、それが徐々に遠ざかっていく。
八代アリス
八代アリス
……悪いことした人が皆、美波ちゃんみたいに正直になれば、世の中ももうちょっと平和になるんですかねぇ
影宮
影宮
なんのために警察や探偵がいると思っている。悪人がいなくなることはない。人間が嘘をつける生き物である限り、この世から悪人が絶えることはありえない。……それが、人間というものだからな
 彼の返答は寂しいようであり、それでも納得せざるを得ない現実を孕んでいる。
 複雑な気持ちでアリスは黙り、そうして、ふと今までずっと疑問だった事柄を影宮に問うてみた。
八代アリス
八代アリス
……ところで、ずっと不思議だったんですけど。なんでそんなヨレヨレの袴を穿いてるんですか?
影宮
影宮
……お前は馬鹿か。探偵で袴といえば、思い浮かぶものはひとつだろう
八代アリス
八代アリス
……まさか、有名なぼさぼさ頭の探偵に憧れていたり?
影宮
影宮
……悪いか
八代アリス
八代アリス
……いえ
 そんな話をしながら、ふたりは駄菓子を食べつつ陽道寺探偵事務所までの道を歩く。
 鴉の声が、橙色の町に反響していた。

 無性に穏やかな心持ちになっていた理由をアリスは己の胸中に探したけれども、不思議と答えは見つからない。
 安い駄菓子の味が、舌に心地好かった。

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