第8話

八話
490
2019/08/11 09:09
 そのとき、公園の向こうに立っている影宮が視界に入る。彼は、公園の側にある魚屋の前に佇んでいた。
 まだ早い時間であるにもかかわらず、魚屋は店を開けていない。僅かに視線をずらして、アリスは納得した。魚屋の入口には「臨時休業」と書かれた札が下がっている。

 そんなガラス戸越しの店内を、何故か影宮は凝視しているのであった。
 しばらく店の中を見ていた彼は気が済んだのか、踵を返して公園まで戻ってくる。
 公園に入ってきた影宮は、今度は美波の横に立ち止まると、無表情で少女をじっと見つめた。おびえた美波が、アリスの衣服を掴む。
八代アリス
八代アリス
だ、大丈夫。このお兄さんも危ない人じゃないからね。……怖い人ではあるけど
 この発言を無視して、影宮はアリスに声を掛けた。
影宮
影宮
おい、依頼人の家に戻るぞ
八代アリス
八代アリス
えっ、もういいんですか?
影宮
影宮
ああ。謎は解けた
 短く告げ、彼はアリスに背中を向けると、ひとりでさっさと歩いていってしまう。
 一応、探偵の助手として同行しているアリスは、影宮についていかないわけにもいかない。
 影宮と美波を交互に見、些か迷いながらも、アリスは少女に念を押しつつ立ち上がった。
八代アリス
八代アリス
美波ちゃん、いい? ちゃんとおうちに帰るんだよ。ひとりでいたら危ないからね
 彼女は不思議そうな面持ちで頷く。おそらく、状況がよくわかっていないのだろう。無理もないことだが。
 公園を出たアリスは、走って影宮に追いついた。
八代アリス
八代アリス
あの、謎が解けたって本当ですか?
影宮
影宮
ああ
八代アリス
八代アリス
でも、まだ少ししか調べてないですよ。ちょっと公園までを見たくらいで……。あ、そういえば魚屋さん覗いてましたね。あれ、なんですか?
影宮
影宮
なんでもいいだろ。どうせ依頼主に説明することになるんだから、そのときに聞けばいい
八代アリス
八代アリス
ちょっとくらい教えてくれてもいいじゃないですかー
影宮
影宮
二度手間になるだろ。答え合わせまでに少しは考えておけ
 素っ気なく言われたアリスは、仕方なくこれまでに得た情報を頭の中で並べ直す。

 気が付けば庭に落ちていたという、血に濡れた鍵。
 庭には草木が生い茂っており、誰かが通れば葉の揺れる音で感付く可能性が高い。
 朝に見たときには、鍵は落ちてはいなかった。
 そもそも、犯人はなぜ庭に鍵を落としていったのか。
 そして、鍵が血に濡れている理由はなんなのか。

 考えてみても、アリスにはちっともわからない。それよりも、この近辺で凶悪な事件が起こった可能性があることのほうが余程恐ろしく感じられた。ひとりで公園に残してきた美波は、大丈夫だろうか。
 鍵の傍に血まみれで倒れている誰かがいれば話は早いのだが、今回の一件はそうではない。

 歩きながら腕を組んで、アリスは考える。しかし、手許にあるパズルのピースはまったく噛み合わず、絵の全体像が見えてくる気配はない。
 そんなことを思案しているうちに、依頼人の家に戻ってきてしまった。
 玄関扉を開けて、影宮は入る。アリスもそれに続いた。
影宮
影宮
田中さん、鍵の謎が解けました。今からそれを説明したいのですが、お時間よろしいでしょうか?
 彼女はきょとんとして、影宮を見返す。
田中
あら、もうわかってしまったんですか? さすが探偵さん……。あ、居間にどうぞ。お茶を淹れ直しますね
影宮
影宮
いえ、先程いただきましたので、今回は結構です。説明もすぐに終わると思いますから
 三人は、そろって居間のちゃぶ台についた。
 影宮は田中から預かっていたハンカチに包まれた鍵を取り出すと、あっさり述べる。
影宮
影宮
この鍵は、おそらく魚屋のものでしょう
 あまりにも話が飛躍したため、アリスと田中はぽかんとして影宮を見つめた。
田中
……魚屋……ですか?
八代アリス
八代アリス
それって、さっき影宮さんが覗いてた、あの魚屋さんですか?
影宮
影宮
そうだ。ひとつ目のキーワードは……
 影宮は人差し指を立てる。
影宮
影宮
この町には、魚を盗んで逃げ出すような悪戯好きの猫が少なからずいることだ
八代アリス
八代アリス
悪戯好きの猫……。私が今日、遭遇したような……?
影宮
影宮
ああ。この辺りには猫が多い。それは、田中さんもご存じでしょう
田中
そう……ですね。おとなしい子ももちろんいますけど、探偵さんがおっしゃったように、悪戯が好きな子も……はい、それなりに多いかと
八代アリス
八代アリス
それが、今回の件になんの関係があるんですか
影宮
影宮
話は最後まで聞け。……ふたつ目のキーワードは、さっき公園で見かけた少女だ
八代アリス
八代アリス
少女って……美波ちゃんですか? まさか、あの子が犯人なんて言うんじゃ――いたっ
 アリスの台詞は、影宮から繰り出されたデコピンによって遮られた。
影宮
影宮
最後まで聞けと、何度言えばわかるんだ
 呆れた声調で、彼は言う。アリスは弾かれたひたいをさすりながら、くちを噤んだ。
 影宮は田中に説明を続ける。
影宮
影宮
先程、すぐそこにある公園へ我々は足を運びました。そこで、たったひとりで遊んでいる少女を発見したのです
田中
ひとりで、ですか? 危ないんじゃ……
影宮
影宮
はい。保護者もなく、小さい女の子がひとりで公園にいる光景は、物騒な昨今、自然とは言えません。そして、もうひとつ、この女の子には不自然な点があったのです
田中
不自然な点? それは……
影宮
影宮
それは、少女から微かに魚の臭いがしたことです
 美波と話をしたときのことを、アリスは思い起こす。たしかに影宮が指摘する通り、気になるほどではなかったものの、少女からは仄かに似つかわしくない臭いがしたのだった。
八代アリス
八代アリス
そういえば……
影宮
影宮
小さな女の子がひとりで公園にいた理由について考えられるのは、自宅がすぐ側にあるか、もしくは保護者が多忙で少女の面倒を見る余裕がないか。このあたりでしょう。
そして、公園の側には魚屋がある。少女が魚屋の娘であると考えることは、決して早計ではないはずだ
 影宮は、ハンカチの上の鍵に目線を落とす。
影宮
影宮
ここで、この鍵に話を戻したいと思います。この鍵はやや小さく、玄関扉の鍵――というわけではなさそうです。おそらくは戸棚かなにかの鍵なのでしょう。そして……
 ハンカチで鍵を掴み、鍵を目の高さにまで掲げた。
影宮
影宮
鍵を汚している、この赤黒い血液。これこそが、この一件を不穏なものに変えている要素です。しかし、我々はこの血液を、当然のように人間の血液であると早合点をしてしまっていたのです
八代アリス
八代アリス
どっ、どういうことですか?
田中
ひとの血ではない、と……?
影宮
影宮
そうです。鍵を濡らすこの血は、おそらく魚の血です
 アリスはぽかんとして、影宮を見返す。
八代アリス
八代アリス
……さ、魚……?
影宮
影宮
僕は、臨時休業の札が掛かっている魚屋の店内の様子をガラス戸越しに確認しました。見ると、中は少々荒れており、まるでなにかを探したあとのようにも見えた。
そこで、僕は考えた。もしやこの魚屋は、本来ならば今日も店を開ける予定だったのではないか。それが突如できなくなる理由が、生まれたのではないか……
田中
出来なくなる、理由……?
影宮
影宮
はい。それこそが、店内が荒れていた理由なのだと僕は推理します。では、ここでひとつの仮説を立ててみましょう。もしも田中さんの庭に落ちていたこの鍵が、魚屋のものだったとしたら? 魚屋にとって、大事な鍵だったのだとしたら……?
 先が気になり、アリスは我知らず、黙って聞き入ってしまう。
影宮
影宮
ここで引っ掛かるのが、公園で元気なさげにひとりで遊んでいた少女の存在です。彼女の行動が、魚屋の臨時休業に繋がっている可能性はないだろうか……?
 アリスは美波とのやり取りを思い出した。
八代アリス
八代アリス
……そういえば、美波ちゃん【悪いことしちゃったの】って言って、落ち込んでました……
 影宮は頷く。
影宮
影宮
この鍵が本当に魚屋の鍵だとして、鍵を濡らしていた血も魚のものだとしたら、これを田中さんの庭に持ち込めた犯人は限られてくる。というより、答えはひとつしか思い浮かばない
田中
そ、それは……?
影宮
影宮
――猫ですよ
 この答えにアリスは目をしばたたき、田中と目配せをした。冗談で言っているのかとも思ったが、影宮は真顔である。
八代アリス
八代アリス
ね……猫ぉ? 猫が、小さな鍵を庭まで運んで、そうして落としていったって言うんですか? そんな……絵本じゃあるまいし……
影宮
影宮
もちろん、ただの鍵をわざわざ猫が運ぶとは考えにくい。しかし……猫が持ち運ぶ理由があれば、話は別だ
八代アリス
八代アリス
……猫が持ち運ぶ理由……ですか?
影宮
影宮
そうだ。鴉なら鍵を盗むこともあるだろうが、猫は普通そんなことはしないだろう。……だが、鍵を盗むことはなくても、魚を盗むことならある。
もし、魚屋の娘である少女が悪戯で血抜き前の魚に鍵を隠し、そのまま戸締りを忘れてそこを離れてしまったとしたら。そうして、その戸締りがされていない扉から、野良猫が侵入したとしたら
八代アリス
八代アリス
……誰に頼まれるでもなく、鍵が隠されていることも知らずに、猫は魚を盗んでいく……?
影宮
影宮
そうだ。幸いにも、この鍵は小さい。それこそ、魚のくちにでも突っ込めばいい。魚を盗んだ猫は当然、安全な場所で魚を食べようとするだろう
田中
それが、私の家の庭だった……?
影宮
影宮
おそらく。魚を食べ終えれば、あとには勝手に鍵が残ります。庭を見せてもらった際、木の根元に魚の骨も落ちていましたし
八代アリス
八代アリス
そ、そんなこと一言も言ってなかったじゃないですか!
影宮
影宮
何故それをお前に伝える必要がある?
八代アリス
八代アリス
一応、助手として同行してるんですから、教えてくれてもいいじゃないですか
影宮
影宮
依頼人の家で茶とまんじゅうを堪能しただけの助手に、教えることなど何もない
八代アリス
八代アリス
うぐぐ……
 悔しいことに、アリスは反駁できない。
 しかし、町を少し歩いただけで容易く謎を解いた影宮に驚く気持ちは確かにあった。――それを素直にくちに出す気は微塵もないけれど。

 影宮は田中に向き直る。
影宮
影宮
そんなわけで、この鍵は我々が魚屋に届けようと思うのですが、いかがでしょう
田中
あ、はい。そうしていただけると助かりますが……。それにしても、こんな短時間で真相を解明してくださるなんて……。さすがは探偵さん。驚きました
影宮
影宮
いえ。謎を解くのが、探偵の仕事ですから
 どこか誇らしげに言って、影宮は指先で眼鏡を上げた。そうして、彼は唇にゆるく弧線を描く。
影宮
影宮
もっとも――本業は、探偵小説家なんですけどね

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