そのとき、公園の向こうに立っている影宮が視界に入る。彼は、公園の側にある魚屋の前に佇んでいた。
まだ早い時間であるにもかかわらず、魚屋は店を開けていない。僅かに視線をずらして、アリスは納得した。魚屋の入口には「臨時休業」と書かれた札が下がっている。
そんなガラス戸越しの店内を、何故か影宮は凝視しているのであった。
しばらく店の中を見ていた彼は気が済んだのか、踵を返して公園まで戻ってくる。
公園に入ってきた影宮は、今度は美波の横に立ち止まると、無表情で少女をじっと見つめた。おびえた美波が、アリスの衣服を掴む。
この発言を無視して、影宮はアリスに声を掛けた。
短く告げ、彼はアリスに背中を向けると、ひとりでさっさと歩いていってしまう。
一応、探偵の助手として同行しているアリスは、影宮についていかないわけにもいかない。
影宮と美波を交互に見、些か迷いながらも、アリスは少女に念を押しつつ立ち上がった。
彼女は不思議そうな面持ちで頷く。おそらく、状況がよくわかっていないのだろう。無理もないことだが。
公園を出たアリスは、走って影宮に追いついた。
素っ気なく言われたアリスは、仕方なくこれまでに得た情報を頭の中で並べ直す。
気が付けば庭に落ちていたという、血に濡れた鍵。
庭には草木が生い茂っており、誰かが通れば葉の揺れる音で感付く可能性が高い。
朝に見たときには、鍵は落ちてはいなかった。
そもそも、犯人はなぜ庭に鍵を落としていったのか。
そして、鍵が血に濡れている理由はなんなのか。
考えてみても、アリスにはちっともわからない。それよりも、この近辺で凶悪な事件が起こった可能性があることのほうが余程恐ろしく感じられた。ひとりで公園に残してきた美波は、大丈夫だろうか。
鍵の傍に血まみれで倒れている誰かがいれば話は早いのだが、今回の一件はそうではない。
歩きながら腕を組んで、アリスは考える。しかし、手許にあるパズルのピースはまったく噛み合わず、絵の全体像が見えてくる気配はない。
そんなことを思案しているうちに、依頼人の家に戻ってきてしまった。
玄関扉を開けて、影宮は入る。アリスもそれに続いた。
彼女はきょとんとして、影宮を見返す。
三人は、そろって居間のちゃぶ台についた。
影宮は田中から預かっていたハンカチに包まれた鍵を取り出すと、あっさり述べる。
あまりにも話が飛躍したため、アリスと田中はぽかんとして影宮を見つめた。
影宮は人差し指を立てる。
アリスの台詞は、影宮から繰り出されたデコピンによって遮られた。
呆れた声調で、彼は言う。アリスは弾かれたひたいをさすりながら、くちを噤んだ。
影宮は田中に説明を続ける。
美波と話をしたときのことを、アリスは思い起こす。たしかに影宮が指摘する通り、気になるほどではなかったものの、少女からは仄かに似つかわしくない臭いがしたのだった。
影宮は、ハンカチの上の鍵に目線を落とす。
ハンカチで鍵を掴み、鍵を目の高さにまで掲げた。
アリスはぽかんとして、影宮を見返す。
先が気になり、アリスは我知らず、黙って聞き入ってしまう。
アリスは美波とのやり取りを思い出した。
影宮は頷く。
この答えにアリスは目をしばたたき、田中と目配せをした。冗談で言っているのかとも思ったが、影宮は真顔である。
悔しいことに、アリスは反駁できない。
しかし、町を少し歩いただけで容易く謎を解いた影宮に驚く気持ちは確かにあった。――それを素直にくちに出す気は微塵もないけれど。
影宮は田中に向き直る。
どこか誇らしげに言って、影宮は指先で眼鏡を上げた。そうして、彼は唇にゆるく弧線を描く。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!