夏の終わり。ナイトレイブンカレッジの入学式は、厳かな空気に包まれていた。 闇の鏡によって魂の資質を見出された生徒達が集まるこの場所は、未来への希望に満ち溢れているようで、どこか薄暗い印象を受ける。
そうして一人、また一人と名を呼ばれ、寮分けがなされていく様子をぼんやりと眺めていた時だっただろうか。ふと、視界の端に藍色が見えた。まだ幼く見えるようなその男は、隣に立っていた。名前順だっただろうか、理由はよく覚えていない。けれど、妙にその凛とした佇まいが気になって、少し身を縮こまらせながら時折視線を向けていた。
ざわり、何処からともなくざわめきが聞こえた気がした。当の俺はと言えば、そんなことを気にする余裕もなかった。生まれてこの方、ろくに同世代の人間と接したことがない俺にとって、この場所はまるで異次元だった。その中でただ人の波を分けて前へと出て行くというだけでも、十分と心臓は早鐘を打つ。その上、自分の番が来てしまったことで更に緊張が増してしまった。
大きく深呼吸をして、一歩を踏み出す。 ゆっくりと歩きながら辺りを見渡すと、視線が集まっているような気がしてならなかった。きっと気の所為ではないのだろう。
学園長に促されるまま、正面に置かれた大きな鏡の前に立つ。 恐る恐る覗き込むと、そこには自分の姿が映っていなかった。それどころか、周りの景色すら見えない。まるで深淵のようにぽっかりと空いた真っ暗な空間だけが映っている。鏡と名がつくにはなんとも奇妙な光景だろう。
ぼんやりとそんなことを思っていると、ゆらり、まるで水面を打つように、或いは燃え盛る炎の中から現れるように。その顔は現れ、俺に問いかける。思わず背筋がぞくりと震えた。 これが魔法の力なのだろうか。
大仰な口ぶりで語るそれは、まるで全てを知っているかのような口振りだった。
俺が何も言えずに黙り込んでいると、再び鏡は語り始める。
鏡はただ、口を一度噤むと此方をぽっかりと空いた深淵で覗き込む。
意味深長な物言いに、どういうことだと尋ねたくなる。しかし此方のことなど見透かした様子の鏡は、俺の返事を待たずして言葉を紡ぎ続けた。
それだけ言うと、鏡は一際大きな声を上げた。
式典も終わり、寮分けが済んだ夕暮れ時。ルームメイトと他愛もない話をしながら、俺は自室へと向かっていた。同期と話すなんて経験がないせいか挙動不審になる俺をフォローしながら、目の前の彼は緑の瞳を細めて笑った。
ひらひらと手を振りながら去っていく後ろ姿を見送って、俺も手を振り返す。恐らく厚意で言ってくれたであろう申し出を蹴ってそのまま部屋に行くというのも、あまり気持ちの良いものではないだろう。
そう思い直して、教えてもらった通りの道を歩く。 寮の鏡を抜けて、鏡舎を出る。オレンジ色に溶ける空が目に痛む。
ぶつぶつと呟きながら、地図を片手に歩いていく。道を進んで行けばいくほど、道の塗装はなくなり、木々が鬱蒼としてくる。本当にこんなところ、来ていいんだろうか。後ろめたさと言おうか、不安と言おうか。そんな気持ちが湧いてくる。しかし、一人のこの空気が落ち着くのも事実だった。
オンボロ寮とやらは見つからないが、それでも一人でいられるこの空間が心地良い。 そう思っていた矢先のことだった。
ふと、何かが聞こえてきた。
それは、誰もいない筈の空間に漂うには不自然なもの。
微睡みを誘うような、優しく、穏やかな歌声。誘蛾灯のようなそれに誘われるように、歩を進めていく。道と言うには些か頼りない木々の隙間を通り抜けるようにして、一歩、また一歩。近付いて行けば行くほど、その歌声が伸びやかに届く。そうしてどれだけ歩いたか。不意に視界の先に、開けた空間があるのが見えた。
そっと、足音を殺して木の影から顔を覗かせる。 そこには、誰かが立っていた。 鬱蒼とした木々の隙間から僅かに射し込む夕焼けが、藍色の髪を照らしていた。
その人物は、歌っていた。 柔らかく、透き通るような声。高くもなく、低くもない、丁度よい音程の声色。その声を聞く度に、どこか心が安らぐような気がした。 そうして耳を澄ましている内に、おぼろげな記憶が浮かんでは消える。
いつの記憶かは定かではない。自我というものがあったかも怪しい頃かもしれない。だが、俺は確かにその歌を知っていた。とても懐かしく、そして愛おしかった。
思わずその場に座り込み、目を閉じる。 美しい旋律に聞き惚れていると、いつの間にか辺りはすっかり暗くなっていた。はっとして目を開けば、其処には誰もいない。
慌てて立ち上がるも、残されたのは木々と星々と俺だけ。
急いで戻ればまだ間に合うだろうか。
そう考えて走り出そうとしたその時だった。
凛と響いたその声に、体が強張るのを感じた。 ゆっくりと振り返れば、そこに居たのは一人の生徒だった。緑を基調とした制服。確か、ディアソムニア寮という名の寮の色だ。
咄嗟に口をついて出た言い訳じみた言葉に、その人は表情を変えずにじっと此方を見る。
すらりとした身のその人は、一歩歩みを寄せると俺の手を掴む。あの少年の色よりは少し薄い、藍色の瞳が此方を覗く。
ぐにゃり。
疑問を抱くより先に、視界が歪む。
酔うような感覚に堪え切れず、瞳を瞑る。
それがようやく収まったと思い目を開く。
何故か俺は、寮の自室に立っていた。まるで白昼夢でも見ていたかのように思えるほど一瞬の出来事だった。だというのに、俺の掌には、握られた手の感覚が鮮明に残っていた。
ひょいとバスルームから顔を出したルームメイトが、目を丸くして此方を見る。
覚えたての挨拶を返しながら、俺はただ、掌を握っては広げを繰り返していた。
それからというもの、俺はオンボロ寮近くの林道に通うようになった。決まって夕暮れ時に、あの歌声が聞こえるのだ。
恐らく、授業が終わってからそのままやって来ているのだろう。日によって聞こえない日があるのが不思議だったが、部活か何か、別の用事があってもおかしくない。そういう日は決まって肩を落として帰ったりするものだった。我ながら単純だと思う。
そうして今日もまた、足を運ぶ。
林道をざっと見渡すと、直ぐに『それ』が見つかった。
二度目にこの林道を訪れた際、まだ日の高い内に訪れたからかこの目印……小さく咲く野薔薇を見つけた。何故かは分からないが、この野薔薇を辿って行くと、あの開けた場所に出るのだ。不思議なこともあるものだとは思ったが、今はそれよりもあの歌声の主に会いたいという気持ちが強かったので、深く考えることはしなかった。
そうしていつもの場所に辿り着けば、やはりあの人はいた。いつものように静かに、けれど伸びやかに歌う姿は、何度見ても飽きない光景であった。
けれど、今日は違う。
今日こそはと決めてきたのだ。
初めて歌を聞いた時から、ずっと思っていたことだった。
この人と話がしてみたいと、そう願ってやまなかった。
勿論、この場所以外で掴まえれば良いだろうとも思った。
けれど、俺はただ話したいわけじゃない。
俺が何よりも伝えたかったのは、
歌が終わる。
余韻に浸るように目を閉じて、
暫くしてから瞼を開ける。
意を決して、俺は両の掌を重ねた。
誰もいない木立の中、一人歌う時間が好きだった。勿論、新しい環境で色んな人と話せたのも楽しいし、新しく寮という家族とでもいうべき存在が出来たのは喜ばしかった。けれど、こればっかりは昔からの性分なのだから仕方がない。
昔誰かが「音楽は心の声」だと残していたけれど、まさしくその通りだと思う。だからこそ、僕はそんな声を一人の場所で吐き出したかった。自分の心をうっかり晒して、馬鹿にされるなんてもう耐えられないから。
自由を体現するように歌声を馳せる。
誰にも縛られない、僕だけの時間。
そう、僕だけだったはずなのに。
木々の向こう側。死角となるような其処から聞こえてきたその声と喝采は、本来此処にあるべきものではないものだった。呆気に取られた僕は、反射的に声を上げる。
声のする方へとマジカルペンを向ける。相手もそれに気が付いたのか、少し動揺したようにがさがさと低木を揺らしながら姿を現した。 その向こうから現れたモノクロームの青年に、僕は目を丸くした。
此方の返答は、どうやら相手からしても予想外だったらしい。ぱちくりと瞬かせる片目が、それを物語る。
ぽかんとしていた間に、素直に出てきた疑問の言葉が自分自身を現実に引き戻す。そうだ。一体全体どういう了見で割り込んでこようとしたんだ、この男は。まさか、不審者?というか、そうとしか思えない。
瞳伝手に『変なことをしようものならやってやる』と訴えながら、僕は返答を待つ。目の前の男は、暫くしどろもどろと言うのがぴったりと言った様子でいたが、やがて観念したかのように真っ直ぐ此方を見た。
思いがけない言葉に目を瞬かせる。次の瞬間、顔がかっと熱くなるのが分かった。
ああ、最悪だ。よりにもよって、僕が一番聞かれたくないものを聞かれていたってことじゃないか!
目がぐるぐると廻りそうになりながら、僕は無意識に拳を握り込む。そんな様子を知ってか知らずか、男はぎこちなく笑いかける。
思ってもみない言葉に、思わず握り込んだ拳が自分に向きそうになる。
どうしよう。絶対馬鹿にされると思っていたのに。というか、これもしかして馬鹿にされてる?遠回し?皮肉?
何が何だか分からないけれど!
兎に角……これ……っ!
真っ赤な顔のまま物も言えずに顔に手を当てて蹲った僕を見て何を勘違いしたのか、目の前の青年は慌てふためいたように言葉を連ねていく。
素直に応じて口を閉じた男を一瞥してから、僕は大きく深呼吸をする。 そうして、ようやく落ち着きを取り戻した後に、僕は改めてその男を見据えた。
ぴしゃんと跳ね除けるように言えば、相手は目を白黒させながらも口を開いた。
名前を聞いて、内心少し驚いた。けれども、今は家柄なんてどうでもいい。目の前のダリウスという男が、僕の歌を聴いた。いや、聴いてしまった。そしてあまつさえ、褒めるなんてことをした。そのことの方がよっぽど重要だった。
悶々とする僕を余所に、今度は向こうが問いかけてくる。
その問いを受けて、僕は一つ咳払いをしてから答えた。
ぱあっと顔を明るくさせる相手に、何だか毒気を抜かれる。そんなの、制服なりマジカルペンなり見れば分かるでしょ。そう言いたくなるけれど、それまでに気を張りすぎていた反動か妙に気が抜けてしまって、もう突っ込む気力もない。
念押すようにそう言うと、彼は不思議そうに首を傾げる。
勢いに押されて頷く彼に、僕はやっと一息つくことが出来た。全く、入学早々いい場所を見つけられたと思ったのに。これじゃあまた一から探さないといけないじゃないか。
頬を膨らませたまま、折角の安住の場所を失った苛立ちを隠せずに足先をとんとんと上下させていると、蚊帳の外に追いやられていたダリウスが視界の端からまた此方を覗いてきた。
やたらと含みのある物言いのまま、此方を伺うようにしてくる彼に目を向けた。
無駄に素直なその笑顔に、眩暈がした。
TO BE CONTINUED ……
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。