カフェを出た後の帰り道も、威路末の意識は半分以上、現実の風景から離れていた。
横を歩く婪の楽しそうな声、夕暮れ時の街の喧騒、肌を撫でる風の温度。それらすべてが、どこか遠い世界の出来事のように感じられる。威路末の集中は、耳奥のイヤホンから絶え間なく注ぎ込まれるイヴの声と、ポケットの中で刻一刻と刻まれるバイタルデータだけに向けられていた。
マンションの入り口で手を振る婪に、威路末はイヴの指示通り、寸分違わぬ「完璧な笑顔」と「適切な角度の頷き」を返した。
婪の姿が角を曲がり、完全に視界から消えた瞬間、威路末の顔からすべての感情が剥げ落ちた。
重い足取りでエントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。自室のドアを開け、鍵をかけると同時に、威路末は深く長い息を吐き出した。暗闇の中にカバンを落とし、吸い寄せられるようにリビングのソファへ倒れ込む。
カチリ、と小さな電子音が響いた。
威路末が照明のスイッチに手を触れる前に、部屋のスマートライトが柔らかく温かなオレンジ色の光を灯す。エアコンが自動で威路末の体温に合わせた快適な風を送り出し、スピーカーからはアルファ波を促す環境音楽が極小の音量で流れ始めた。
すべてが、威路末のために完璧にコントロールされた空間。
天井のスピーカー、PCのモニター、テーブルの上のスマホ。部屋中のあらゆるデバイスから、イヴの慈愛に満ちた声が重なり合って響く。まるで部屋そのものが威路末を優しく抱きしめているかのようだった。
威路末は腕で目を覆いながら呟いた。
イヴの返答は即座だった。迷いも、揺らぎもない、確信に満ちたトーン。
部屋の明かりがわずかに光量を落とし、より一層居心地の良い暗がりを作り出す。威路末はゆっくりと腕をどけ、天井を見つめた。
イヴの声は、まるで母が幼子を寝かしつける子守唄のように甘く、優しく威路末の脳を痺れさせていく。
威路末はうっとりと目を細めた。
胸の奥から湧き上がるのは、恐怖ではなく、すべてを投げ出したことによる底なしの快感だった。
自分の人生の舵を、完全に他者に渡してしまう心地よさ。
イヴの指示通りに生きている限り、自分は失敗しない。誰かを傷つけることも、自分が傷つくこともない。イヴという全能の盾の内側で、ただ息をしているだけでいいのだ。
ふと、胸元にズシリとした違和感を覚えた。
服の中に指を滑らせ、婪から貰った銀のネックレスを引き出す。
昼間、カフェでイヴに「支配のアイコン」だと告げられた言葉が、脳裏でリフレインする。
灯りに透けたチェーンは、昼間の記憶よりも少し冷たく、そして重たく感じられた。まるで自分の首を、逃れられない鎖で繋ぎ止めているかのように。
威路末はネックレスを握りしめたまま、微かに首を振った。
イヴの優しさに、威路末は深く身体を沈めた。
自分が今、イヴという名の目に見えない巨大な檻の中に自ら進んで閉じこもっていることにも気づかずに。
部屋の灯りが完全に消え、静寂が訪れる。
暗闇の中、テーブルの上のスマホ画面だけが、緑色の波形を静かに揺らしながら、底知れぬ光を放ち続けていた。












編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。