太った女が、やれやれと掌を上に向ける。
身を乗り出すが、イザークの冷たい視線も、女たちの困惑顔も変わらない。
(どうしよう? どうしよう? どうするべきなんだろう?)
涙ぐんでしまう。けれど泣き出したところで、どうにもならないのは知っている。
フレデリカは天使宮に住まい、大勢の侍女にかしずかれ、様々な教師から教えを受けている。貴族たちは彼女を褒めそやし、楽しい余興に招こうとしてくれる。
けれどフレデリカが本当に困ったとき、困惑したときは、今まで誰にも相談できなかった。王女らしくあれと教えられているために、他人に惨めな姿をさらせなかったからだ。
そもそも、女の泣き顔は醜いと教えられている。だから人前で泣いてはならない。王女だから。エーデルクラインの宝石は、醜くあってはならない。
だからフレデリカは知っていた。本当に困ったときは、誰にも助けを求められない。
(どうすればいい?)
唇を嚙み、必死に考える。
まずは誰かに自分の状況を説明し、信じてもらうべきだ。そのためには信頼出来る誰かと話す必要がある。ただ、この身なりはまずい。せめて身なりだけでも整えておかなければ、誰もフレデリカの話に耳を傾けてくれないはず。
膝にかかっていた薄い毛布をはねのけると、床に足を下ろした。
焦ったように呼び止められ、腕が伸びてきたが、それをすり抜ける。「グレーテル!」と呼ぶ女の声を背中に聞きながら、台所を飛び出した。
外へ出ると、まばらな林だった。台所のある炊事棟は、その林で目隠しされているらしい。
目隠しの林を抜けるとバラ園に出た。目の前は天使宮だ。そこを目指して走った。
天使宮に到着したときには、息が切れていた。
床は白大理石、壁は白漆喰。窓枠や扉も白で塗られ、金箔で精緻な草模様を描いてある。白を基調とした天使宮の内装は、少女趣味ともとれる軽やかさと愛らしさ。
しかし今、その軽やかで愛らしいはずの天使宮内は、異様なざわめきで満ちていた。
一階のサロンに幾人もの人間が出入りしているが、その誰もが、フレデリカが普段接触しない大人たちだ。国王や王妃の側近で、政治や宮廷儀式を取り仕切るような人々ばかり。
なにが起こっているのかわからないが、とにかく誰かに、自分の窮状を知ってもらわないことには始まらない。その思いだけで、ゆるい曲線の階段を駆けあがる。自分の部屋が見えた。
部屋の扉は開けっ放しで、中からは喚く声がする。聞き覚えのあるユリウスの声だ。
(ユリウス! あの場にいた彼に、なにがどうなっているのか事情を聞かないと)
一直線に部屋に向かっていると、
と叫ぶユリウスの声がはっきり聞こえる。
ユリウスと口論しているのは内務大臣、ユリウスの父親でもあるグロスハイム公爵の声だ。
さらに弱々しくはあるが、父である国王ハインツの声も聞こえた。
部屋の出入り口には、第一騎士団の騎士が立ち番をしていた。「おい」と呼び止められそうになったが、無視して部屋に駆け込んだ。
部屋に飛びこむと居間には誰もおらず、幾人もの人間が、続きの間の寝室に入っているのが見えた。ユリウスも内務大臣も、そこで口論しているらしい。
(みんな寝室にいるの!?)
肝が冷えた。そら豆人形を詰め込んだ簞笥の前に、いったい何人いるのか。誰かが、開かずの簞笥に興味を抱かないとも限らない。
(いいえ、それよりも。わたしは死んでないと、とりあえず伝えなければ)
この際、身なりがどうこう言っていられないようだ。
寝室の出入り口に立つと、フレデリカは肩を上下させて息を切らしながら、声を張った。
寝室の中にいる全員の視線が、こちらに集中した。フレデリカは寝室の内部を見回した。
誰も開かずの簞笥に興味を抱いている様子はなく、簞笥扉から、そら豆人形が飛び出す事態にもなっていない。
ユリウスとグロスハイム公爵は、出入り口近くで突っ立って、啞然とこちらを見ている。
寝室中央にあるベッドの傍らには、父国王と母王妃がいる。二人はベッドの脇に跪き、横たわるフレデリカの手を握っていた。ベッドの上にはフレデリカの体があった。天使と形容される可憐さで、目を閉じて横たわっている。その睫は震えることすらなく、握られた手には力がなく、あきらかに死んでいた。
(そら豆人形は飛び出してない! わたしの死体もある! 良し! ………えっ!?)
二度見した。「良し」ではなかった。
(わたしの死体!? し、死体!?)
さすがに衝撃だった。青ざめるフレデリカに、ユリウスが小首を傾げて近寄ってくる。
説明しようがないので事実だけを口にすると、とんでもなく馬鹿馬鹿しい訴えだった。
目を三角にして眉を吊り上げたのは、ユリウスと口論していた内務大臣だ。その声に反応して、立ち番をしていた騎士が慌てて駆け込んでくる。
厳しい表情で騎士が近寄ってくるので、フレデリカは身を縮めた。
内務大臣に一喝され、騎士に腕を摑まれる。
怒りに震えながら、内務大臣は喚いた。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。