微笑んで紙を渡すと
眼鏡の男は噛み締めた様な表情で紙切れを握りしめた。
あなたの名字は苦々しくも億劫な表情で
何も話さず俯いている。
そう言って眼鏡の男はその場を去った____
___月明かりの照る薄暗い倉庫。今日は満月らしい
スマホのデジタル時計は23時を指している
向かいに座る男が、何か本を手に持って
此方に尋ねていた
対して、遠く離れた隅に一人、体操座りのあなたの名字は顔を膝に埋め込んで裾を握りしめている
あなたの名字の目は、自然と
虚ろな空虚感に溢れる瞳に戻っていた。
_____幼い頃。
両親には、生まれて一度も
名前なんてものを呼ばれた事など無かった
義務教育も満足に出来ない環境下だった事もあって、
名前の事は、十歳になる迄気付かなかった。
繰り返される飢餓状態、罵詈雑言の嵐、
身体中に増える火傷と傷の後
虐待やネグレクトは日常的
もはや生きたいなんて思えなかった。
努力は報われるって言う。
ただそんな事が分かっていた所で、
出来なければ、何の意味も無い
そんなのは成功者の言葉で、なじられた経験も、
殺されかけるまで殴られた経験も無い人間の言葉だ
____ただ、そんな人間の輪の中に、
足を踏み入れたいと思わない訳じゃなかった。
___確か十ニ歳の頃。
1月前半、風が強い真冬の季節
家の外へ、放折出された。
襤褸切れ一つの状態で、酷く肌が悴んだ
肺奥から凍り付くように寒さを感じる中、息は
震え上がり、感覚は指先から段々と薄れた。
恐怖より、苦痛より、疑心があった
暖かな雰囲気の家に、親子が手を繋ぎ合って、他愛もない話をして、笑って、歩いて、家へ入って行く様を
霞んでいく目で強く見つめる
あれが、普通なんだろう
きっと、美味しいものが食べられるんだろう
腐った塵やゴミを、口に突っ込まれる事も無いのだろう
煙草を腕に擦り付けられる事も無いんだろう
なんで、私は、普通じゃ無いんだ
生まれる場所も、人も、親も、選べないのなら
生死くらいは選ばせて欲しい
その時、一人の女の子が、私の手を握った。
手には割れた瓶の破片が持たれており、鋭利な先端があと少しで喉元に突き刺さる所だった
私は、ただ無言で、話す事すら出来なかった。
話すなと言われたからだ
単なる子供じみた恐怖でしか無かった
「危ないから、こんなもの持っちゃダメ」
女の子から言われた言葉は、実に
一般的な意見だった。
普通の意見だった
その子は、あやと名乗った。
私は名乗らなかった
名前が分からないと言った
「 じゃ、考えよ 」
あなたの名字あなたの下の名前は、その子が
付けてくれた名前だった。
あやは名前をくれて、暖かい家に入れてくれて、
世話を見てくれた。
本名は知らない、どうでもいい
ただ、其れでいいと思った
親は死別した。
あやと分かれて、玄関口が開いていると思えば
開いた瞬間、親は玄関口で倒れていた。
母親が、玄関の扉に手を掛けて、
そのまま息絶えたらしい
部屋の内装は、いつも以上に荒れて
錯乱した様子だった。
刃物も刺さっていなければ中毒でも無い、人が入った様子も無い…殺人としては歪だ
自殺としてその事件は処理された。
親を無くして、施設で育って、大人になって
気づいた。
其れは、自分が犯人なんじゃないかと
友人が、目の前で錯乱し始めたんだ。
男は声を張り上げ、本を閉じながら私の言葉を遮った。
太宰の容赦が無い言葉の一つ一つが、
頭蓋骨に突き刺される様だった。
あなたの名字は、その場にドサリと倒れ込んだ。
静かに息をするあなたの名字の頬を、
太宰は優しく撫でた。












編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。