竜平side
きっと俺にはないとついさっき思った勇気を、でもあなたの下の名前は持っていたらしい。
一度は遠くの、駅前の雑踏に飲み込まれたように見えた華奢な体が、でも次に目を開けたときにはすぐ目の前にいて。そして、空っぽの俺の手に再びぬくもりが蘇る。
一瞬、言葉を生み出す痛みに顔をしかめたあなたの下の名前だったけれど、また意を決したように俺の目をまっすぐに見据える。
ただ、一気に彼女の体温が移ったように火照っていたからだが、熱を失っていくのが分かる。
……偽りで始まった偽りの関係が、続くと夢想してしまうことの方が間違いなはずで。いつかは来ると思っていたそのほころびを、きっと俺は甘んじて受け入れるしかないだろう。
あなたの下の名前は眉をぎゅっと寄せると、俺の手に絡めた指に力を籠め、がばっと頭を下げた。
竜平がまったくそういうこと思ってなかったのならごめん、と、頭を下げながら彼女はぼそぼそとつぶやく。
…ああ、俺何やってんだ、まじで。
その語尾が消えかかっているのに、やっと、気づく。
おびえたような、少し湿った瞳を向けた彼女の冷え切った頬を、空いている方の手で包む。
都会の雑踏に踏みにじられそうな寒々とした空に、でも誰かを思う言葉が溶ける。
あなたの下の名前は一層その瞳に水分を蓄えると、俺にぎゅっと抱きついてくる。…手をつなぐ以上のことはしたことがなかったので、おそらく彼女からしてみればそれはとても勇気のある行動だっただろう。
その健気さが、微笑ましい。
ずっと隠そうとされてきて、なかったことにされかけていた思いが、少しずつ、芽吹いていく。
089.玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする
式子内親王
私の命よ、絶えてしまうのならば絶えてしまっておくれ。このまま生きたならば、耐え忍心が弱って困ったことになってしまうから。
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。