川から引き上げられ、私は男の差し出した継ぎ接ぎの手を取った。
不確定な未来への恐怖よりも、この男が放つ圧倒的な存在感と、首にかけられていた手のひらの熱が、私の身体を突き動かしていた。
夜の帳が深く降りた街を、私たちは言葉も交わさずに歩く。
私の制服のスカートは水を吸って重く、足を進めるたびに冷たさが容赦なく肌を刺した。
けれど、前を行く男は振り返りもせず、ただ私の手首を強い力で掴んだまま、夜の深淵へと私を引きずり込んでいく。
街灯の光すら届かない、入り組んだ薄暗い路地裏へと滑り込んだ時、ようやく男は足を止めた。
高架下の湿った空気と、カビと、それから男の身体から漂う皮膚の焦げたような鉄の匂いが、狭い空間に充満する。
男が掴んでいた手を離し、壁に背を預けた。
暗がりに浮かび上がる彼の青い瞳を見つめながら、私はずっと胸の奥でくすぶっていた疑問を、静かに投げかけた。
私は一度も名乗っていない。
雄英の生徒ですらない、ただのからっぽな少女の名前を、なぜこの男が知っているのか。
男は答えず、ただ自嘲気味に口元を歪めた。
ステープルで留められた皮膚が、歪に吊り上がる。
その特異な笑い方。
酷く低くて、どこか聞き覚えのある、鼓膜を微かに揺らす掠れた声。
そして何よりも——私の凍りついた心を容易く見透かし、足元をすくうような、あの傲慢で哀しい眼差し。
——その瞬間、私の脳裏に、かつて瀬古斗岳の炎の中で消えた「彼」の面影が、恐ろしいほどの鮮明さで重なった。
心臓が、激しく脈打ち始める。
もし目の前の男が彼なのだとしたら、私の個性『終幕』が視せた未来は一体何だったのか。
私は、誰の終わりを視て、誰を見殺しにしたというのか。
燈矢なの?
その言葉が喉の奥まで出かかった、その時だった。
男は私の顎を雑に指先で押し上げ、私の言葉を物理的に遮るように顔を近づけてきた。
至近距離で見つめ合う、吸い込まれそうなほど綺麗な青い瞳。
彼は私の問いに対して、肯定も否定もしなかった。
ただ、酷く冷たく、それでいて全てを焼き尽くすような暗い熱を帯びた声で、私の耳元に囁く。
酷く冷たく、けれどすべてを焼き尽くすような暗い熱を帯びた、明確な拒絶の響き。
男は「荼毘」と名乗ることで、私の言葉を、そして過去のすべてを冷酷に切り捨てた。
彼は、過去の自分——優しくて、不器用で、私の特別なお兄ちゃんだった「轟燈矢」という亡霊に、私を囚われたくなかったのだ。
死んで灰になった過去の男の影を追うことなど、彼は微塵も望んでいない。
すべてを焼き尽くし、地獄の底から這い上がってきた、この剥き出しの「荼毘」という怪物を、私に見て欲しかった。
過去の思い出で美化された姿ではなく、醜く焼き切れた今の自分だけを、私の瞳に、私の命に、刻みつけて欲しかったのだ。
たとえそれが、憎しみや恐怖、あるいは歪んだ破滅への依存だとしても。
男の沈黙と冷徹な瞳の奥に、私は言葉にできないほどの巨大で歪な執着を感じ取り、それ以上何も聞けなくなってしまった。
私はただ、彼の言う通り、目の前にいる「荼毘」という現実を、黙って受け入れることしかできなかった。
再び歩き出した私たちは、夜がゆっくりと白み始める街を抜けていく。
ビルの隙間から、世界を淡いオレンジ色に染め上げる朝焼けの光が差し込み始める頃、気がつけば私は、見覚えのある自分の家の近くまで送り届けられていた。
男は短くそう言うと、私に未練など一切ないかのように、すぐに背を向けた。
朝の光に照らされる彼の背中は、夜の闇の中で見た時よりもずっと孤独で、そして息を呑むほどに美しかった。
家に戻れば、朝帰りの私を両親や焦凍は心配するだろう。
私を現世に引き留めようとする焦凍の必死な熱と、私を地獄の底へと誘うこの男の青い炎。
二人の轟家の血に挟まれながら、私は自分の寿命が、また少しずつ削れていく静かな音を、胸の奥で聞き届けていた。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!