第9話

追憶6 シナリオのない夜
32
2026/07/18 10:17 更新



その夜。




私は焦凍の手を振り払うようにして、一人、瀬古斗岳へと足を運んでいた。



かつてあの日、青い炎がすべてを焼き尽くした山頂。


ここに狂ったように生い茂る木々の合間に腰を下ろすと、少しだけ息がしやすくなるような気がした。


もう一度、あの人に会えるわけでもないのに、今の私にはこのむくろのような場所だけが、唯一の居場所だった。






ふと夜空を見上げる。






星に祈りを捧げようとしたけれど、天を覆う厚い雲のせいで、そこにはただ窮屈で暗い空が広がっているだけだった。



未来を視る私の目にも、この曇天の向こう側は見通せない。


あなた
……もう、終わりにしよう。


これ以上、罪を重ねて生きる必要もない。


私は立ち上がり、近くを流れる川へとゆっくり足を踏み入れた。



水は刺すように冷たかった。

制服のスカートが水を吸って重くなり、足元がじわじわと不自由になっていく。

それでも歩みを止めず、私は自ら、川の最も深い場所へと体を沈めようとした。


冷たい水が胸のあたりまで満ち、呼吸が苦しくなった、その時だった。


——バシャリ、と激しく水音が弾けた。

あなた
っな、に——



突如として、背後から伸びてきた頑丈なひとつの手が、私の腕を乱暴に掴んだ。



抗う隙も与えられないほどの強引な力で、身体を陸側へと引き戻され、無理矢理こちらを向かされる。



視界が揺れ、水飛沫の向こう側に一人の男の姿が浮かび上がった。


全身の皮膚を紫色の肉で継ぎ接ぎにした、おぞましくも退廃的な姿。



私の知る誰の記憶にも該当しない、全く見知らぬ、凶悪なヴィランの男。



それなのに——その顔に不釣り合いなほど澄んだ青い瞳の奥に、ドロドロとした酷い怨嗟の炎を見た瞬間、私の胸がなぜかドクリと跳ね上がった。




男の手が、水濡れで冷え切った私の首へと容赦なくかけられる。



皮膚の焼けたような、鉄の匂いが鼻腔を突いた。


あなた
(見なきゃ。この男との『終幕』を——)


いつもなら、生存本能か義務感か、あるいは自暴自棄な好奇心から、私は自らの命を削ってでも目の前の男の「結末」を視にいっていただろう。



けれど、この男に触れられた瞬間、私の本能が、かつてないほどの恐怖で悲鳴を上げた。



脳裏を過る、あの夜の瀬古斗岳の青い炎。



この男の顔に不釣り合いなほど澄んだ青い瞳を見つめていると、もし今、この男との結末を視てしまったら、私は二度と正気ではいられなくなる——そんな、底の知れない直感が全身を支配する。




見たくない。




怖い。




これ以上、自分の寿命を削ってまで、最悪の確定した未来なんて知りたくない。



私は初めて、自分の個性を起動させることを拒絶した。



ぎゅっと目を瞑り、未来から、運命から、必死に逃げるように思考を遮断する。



私の知る未来のどこにもいない男。



生殺しのまま私を見下ろす男の薄い唇が、愉悦と皮肉の混じった低い声で、静かに言葉を紡ぐ。



荼毘
選べよ、あなた。……このままここで惨めに溺れ死ぬか、それとも、俺と地獄へ来るか。


なぜ私の名前を知っているのか、その理由も分からないまま、私はただ首にかかる手のひらの熱さに震えている。



結末の視えない真っ暗な闇の中で、私は初めて、自分の意志で選択を迫られていた。



世界から完全に色が消え去ったその場所で。


私は男の冷徹な瞳を見つめ返し、震える唇で、私を壊すかもしれないその地獄の手を取るために、静かに微笑んだ。



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