第2話

静寂に潜む記憶
214
2025/05/30 13:00 更新
中原サイド

移動中、ふと太宰が口にした。

「……中也、って……誰?」

静寂が、皮膚の内側にまで染み込んでくる。

何かの冗談かと思った。
けれど、その声は――まっすぐに、悪夢だった。

「おい……」

言葉が出なかった。喉の奥が凍りついて、うまく息すらできなかった。
太宰の目には、俺が映っていなかった。
いや、“今の俺”じゃない、“誰か”を見ていた。

「夢を見た気がする。銃声と……中也が……僕を、呼んでて……」

“中也”が“俺”じゃないような言い方だった。
それが何より恐ろしかった。

「――ふざけんなよ」

絞り出すように、声が漏れた。
無意識に握った拳は震えていた。
目の前にいるはずの太宰が、遠くて、冷たくて、
まるで“もう二度と届かない存在”みたいだった。

「俺はここにいるだろ。見てんだろ、俺を」

問いかけは、呪いのように沈んだ。
太宰の目はまだ虚ろだった。
その中に映ってる“中也”は――たぶん、俺じゃない。

“名前だけが同じ、別の中原中也”

それが太宰の記憶に残ってるのなら、
それ以外の全部――笑い声も、喧嘩も、涙も、命をかけた夜も――

全部、忘れちまってるのか……?

喉が詰まり、呼吸が乱れる。
でも泣き声は漏らさなかった。

絶対に、太宰の前では。
「なぁ、太宰」

その名を呼ぶ声は、どこか遠く、自分のものじゃないように聞こえた。
体の芯が冷え切っていた。怒りとも、哀しみとも違う何かが、ゆっくりと胸を食い破っていく。

「お前が……覚えてる“中也”って、誰なんだ?」

太宰は反応しない。いや、できないのかもしれない。
額を押さえ、眉をひそめ、まるで過去の幻に囚われているような顔だった。

その姿が、怖かった。

もしあの夢の中にいたのが、転生前の“中原中也”だったなら――
太宰が思い出しているのは、“俺”じゃない。

「……違うんだったら、もう口にするな」

声が震える。
でも怒鳴ることも、殴ることもできなかった。
そうしたら、完全に壊れてしまいそうで。
太宰も、自分自身も。

「……お前が誰を思い出してようと、今、ここにいるのは俺だ」

中也は、静かに言った。
言い聞かせるように。
そして、それ以上なにも言えなくなった。

車内には再び沈黙が落ちた。
ただ、窓の外の街だけが、変わらずに流れていた。

だけど、中也にはわかっていた。
この夜を境に――太宰も、そして自分も、
もう何かが元には戻らないことを。

気が付いたら、もう家についていた。
太宰とともに家に入り、太宰はベッドに、
俺は頭を冷やすためにリビングへと足を運んだ。
太宰サイド

(暗い――暗い、夜だ)

視界にうっすらと広がる霧。
硝煙の匂い。雨。血。誰かの叫び。

「……っ、走れ……っ! 置いていけ!」

声がした。
苦しげな、必死な――それでも笑っている、誰かの声。

(誰……だ?)

銃声が響いた。
胸の奥が、焼けるように痛む。
視線の先、崩れ落ちる小柄な身体。赤い髪。血に濡れた唇。

「中也ッ……!」

自分の声だった。叫んでいた。
喉が裂けそうなほど、必死に、あの名を呼んでいた。

なのに、彼は――笑っていた。
目の前で、消えていくその人は、最後にこう言った。

『……遅ぇよ、ばか太宰……』

――

「っ……!」

太宰は跳ね起きた。息が荒い。額は冷や汗で濡れていた。
天井を見上げ、しばらく自分が“今”にいることを思い出せなかった。

隣の部屋から、小さな物音がした。
彼は振り返る。何かが、胸の奥に引っかかっていた。

(……なぜ、あの名前が――)

夢の中で呼んだ名を思い出す。
それが、なぜかあの男と一致した。

中也。

今、共に暮らしているその男の顔と、
夢の中で血に濡れて崩れた人物が、重なる。

(……おかしい。僕は……アイツ中原 中也を、いつから知っていた?)

疑問は、静かに胸に落ちた。
中原サイド

深夜。街の灯が静かに滲む窓の向こう。
中也はソファに座ったまま、カップの中でぬるくなった紅茶をじっと見つめていた。

眠れなかった。

さっきの太宰の言葉が、脳裏を焼き続けていたからだ。

「……中也、って……誰だ?」

震える手を無理に止めるように、カップをテーブルに置く。
そのとき、何かの音がした。

……布団が軋むような、低い呻き声。

「……太宰?」

すぐに立ち上がった。
音のする方向――太宰の部屋。
中也はドアに近づき、しばらく耳を当てて様子を伺った。

「……中也……やめて……っ……っ、置いていかないで……っ」

夢、だ。

太宰のかすれた声が、低く響く。
それは、誰かに手を伸ばし、必死に追いかけているような――そんな声。

「……っ」

中也はそっとドアノブに手をかけた。
ゆっくりと、音を立てないように、ドアを開く。

薄暗い部屋。微かな月光に照らされて、汗に濡れた太宰がベッドに横たわっていた。
額には冷や汗、唇は何かを呟いていた。

「……中也……もう一度だけ…おねがい…」

その言葉に、中也の心が揺れる。

(夢の中でも、あの名前を呼んでる……)

けど、もしかしたらそれは、
“俺”じゃないかもしれない。

胸の奥が、きゅう、と痛んだ。

中也は、一歩、部屋に踏み入れる。
太宰の顔を覗き込むように膝をつき、その頬に静かに触れた。

「……俺だ。ここにいる」

低く、囁くように。
届くかどうかもわからないその声を、祈るように紡いだ。

太宰の眉がわずかに動いた。
でも、目は覚まさない。

夢の中で太宰が誰と向き合っているのか――
それを知るのが、今はただ、怖かった。

中也はそっと手を引き、ドアを静かに閉めた。
中原サイド

翌朝。

「……中也」

朝の光が、静かに差し込むダイニング。
湯気の立つコーヒーの向こうに、太宰がぽつりと呟いた。

中也はパンにバターを塗りながら、短く返す。

「なんだよ」

「変な夢を見たの。……多分、夢、だと思うんだけど」

中也の手が止まる。だが顔は上げない。

「血が流れてて、銃声がして……誰かが名前を呼んでて……」

太宰は、自分の言葉をなぞるように話し続ける。
どこか遠くを見つめているようなその目が、妙に冷たく見えた。

「“中也”って……誰かを、呼んでた。僕が、だ。確かにそうだった」

(やっぱり……)

中也は唇を噛む。
太宰は、自分のことを呼んでるんじゃない。
過去の“誰か”――自分と同じ名前の、別人を夢に見ている。

「……なんか、妙にリアルでさ。あの中也、すごい喧嘩っ早そうで、でも……最後には笑ってた」

そこまで聞いたとき、ガタン、と音が鳴った。

中也の手が、コップを倒していた。

「……“喧嘩っ早そう”?」

太宰が一瞬、きょとんとした顔を向ける。
だが中也の目は、笑っていなかった。

「……そいつ、俺に似てたのかよ?」

「え?」

「似てたから、そう言ったんだろ? 俺の名前呼んで、俺の顔が浮かんで、けど――
お前の頭ン中にいる“中也”は、俺じゃねぇってことか」

太宰は何も言えなかった。
言葉が喉の奥で詰まり、中也の怒りに触れたのがわかった。

「……別に、怒ってねぇよ。そういう夢を見るのも、そいつに何か想ってたのも、全部、太宰の勝手だ」

中也は立ち上がった。
声は震えていない。でも、明らかに冷えていた。

「ただ……知っておいてほしかっただけだ。
“今ここにいる中也”は――お前にそういう顔で見られたくねぇってこと」

そして、コートを羽織り、何も言わずに部屋を出ていった。

太宰は、残されたコーヒーを見つめたまま、立ち尽くしていた。

プリ小説オーディオドラマ