スバルサイド
膝の上で、さっきまで少し落ち着きかけてた亮の体が、ふっと軽くなった。
力が抜けたんちゃう。
次の動きに移る前の、妙な軽さ。
「あ、来るな」
そう思った瞬間、亮は俺の膝からずるっと滑り降りて、プレイマットの上にごろんと転がった。
「にちゃん!!」
「なに」
「りょあかんするよー」
「何する気やねん」
「お膝する?」
「今降りたとこやろ」
「ちゃう」
「ちゃうんかい」
亮は仰向けのまま、足をばたばたさせる。
どん、どん、とかかとが床に当たる。
「足、うるさいで」
「ちゃう」
「ちゃう言いながらめっちゃ鳴ってる」
「どん」
「自分で言うてるやん」
こうきが横で吹き出す。
「今、自分でどんって言ったやん」
「言ったな」
「かわいいな」
亮はこうきの声に一瞬反応して、顔だけそっちへ向ける。
でも返事はしない。
すぐ俺に戻る。
「にちゃん」
「なに」
「アイスする?」
「今ちゃう」
「ちゃう」
「後でや」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
「よし」
亮は“よし”と言った直後に、今度は両手で床をばんばん叩き始める。
ばん、ばん、ばん。
「あー、手も出てきたな」
「ちゃう」
「手太鼓やん」
「ちゃう」
「じゃあ床に謝り」
「ちゃう」
こうきが笑いながら言う。
「床に謝るんはおもろすぎる」
「床、朝から踏まれて叩かれて大変やで」
「確かに」
亮はさらに声を上げる。
「あーー!!」
意味のある言葉じゃない。
でも、出さずにはいられない音。
体の中の勢いが、そのまま声になって出てる。
「声も来た」
「うあーー!!」
「フルコースやな」
こうきが少しびっくりした顔をしながらも、笑ってる。
「なあすばる」
「ん?」
「これ、怒ってるん?」
「怒ってるというより、上がってる」
「上がってる?」
「テンションとか衝動とか、全部上に来てる感じ」
「へえ」
「止まらんねん。体も声も言葉も」
亮がその説明にかぶせるように叫ぶ。
「あーー!!」
「ほらな」
こうきがまた笑う。
「めっちゃわかりやすいタイミングで出るやん」
「説明に協力してくれてるんかもしれん」
「亮くん、協力してんの?」
亮はこうきを見る。
数秒。
「……ひと」
「そう、人やで」
俺が返す。
こうきが自分を指差す。
「俺やで。こうきやで」
亮はすぐ俺を見る。
「にちゃん」
「なに」
「ひとおる?」
「おる」
「ちゃんと?」
「ちゃんとおる」
「よし」
こうきが嬉しそうに笑う。
「俺、ちゃんとおる判定もらった」
「もらったな」
「やった」
亮はそのまままた横に転がって、足をどんどんする。
どん、どん、どん。
「足ドリブルすな」
「ちゃう」
「ボールないのにドリブルしてるやん」
「ちゃう」
「エアドリブルや」
こうきが腹抱えて笑う。
「エアドリブルはあかん」
「亮、今エアドリブル選手権出てる」
「優勝やん」
「ぶっちぎり優勝」
亮はその言葉のどこかを拾ったのか、急に足を止める。
「ちゃんと?」
「ちゃんと優勝」
「よし」
「優勝でええんや」
こうきが笑いながら言う。
「すばる、返しうますぎるやろ」
「毎日鍛えられてるからな」
「俺やったら最初の三つくらいで詰むわ」
「詰むな」
「でも、こうやって返したらええんやな」
「返したらええ。全部正解にせんでええ」
「正解じゃなくてええん?」
「うん。返すのが大事」
亮がまた俺の服を引っ張る。
床に転がったまま、手だけ伸びてくる。
「にちゃん」
「なに」
「おやつする?」
「さっきした」
「ちゃう」
「ポテチ食べた」
「ちゃう」
「チョコも見てた」
「ちゃう」
「食べ過ぎや」
「ちゃう」
「全部ちゃうで押し切るな」
こうきが横から言う。
「亮くん、おやつは後やで」
亮がぴたっと止まる。
こうきを見る。
今度はちょっと長い。
でも、こうきに返すわけじゃない。
俺を見る。
「にちゃん」
「なに」
「おやつ、後?」
「後」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
こうきが小声で言う。
「今、俺の言葉ちょっと入った?」
「入ったな」
「直接返ってはきてないけど」
「でも拾ってる」
「すご」
こうきは嬉しそうに笑う。
亮はその笑い声に反応して、また「あーー!!」と声を出す。
「声で返してるんかな」
こうきが言う。
「それもあるかもな」
「じゃあ俺、返事もらったん?」
「かもしれん」
「やった」
亮はまた床を叩く。
ばん、ばん。
「今度は床拍手か?」
「ちゃう」
「こうきに拍手?」
「ちゃう」
「兄ちゃんに拍手?」
「ちゃう」
「全部ちゃうか」
「ちゃう」
こうきが笑う。
「でも、ちゃうってちゃんと返すんやな」
「返すで」
「会話やな」
「会話やで」
「俺、最初わからんかったけど、だんだんわかってきた」
「何が?」
「ちゃんと返ってくるんやなって」
「そうやな」
亮が急に上半身を起こして、俺の方へにじり寄ってくる。
「にちゃん」
「なに」
「お膝する?」
「また戻ってきた」
「お膝したい?」
「したいのは亮やろ」
「ちゃう」
「ちゃうくないやろ」
「お膝する?」
「座るなら座る」
「する」
「ほなゆっくり」
と言う間もなく、亮は勢いで乗ろうとする。
「うわ、急に来るな」
「お膝」
「してるな」
「ちゃんと?」
「ちゃんとお膝」
乗ったと思ったら、またすぐ体を反らして、足を床にどんっと落とす。
「お膝しながら足ドリブルすな」
「ちゃう」
「膝の上で試合始めるな」
こうきが笑いながら手を叩く。
「ほんま忙しいな、亮くん」
亮がこうきを見る。
「忙しい?」
音を拾った。
こうきが目を丸くする。
「今、忙しいって言った?」
俺に聞く。
「言ったな」
「え、俺の言葉?」
「たぶん拾った」
こうきはぱっと笑う。
「亮くん、忙しいな」
亮はこうきを見たまま、少し間を置いて。
「……忙しい」
「うわ、言った!」
こうきが嬉しそうに声を上げる。
その声で亮のテンションも上がる。
「あーー!!」
「上がった上がった」
「上げてもた!」
こうきが笑う。
「ごめん、でも嬉しいわ」
「嬉しいのはわかる」
「今のは嬉しいやつやん」
「嬉しいやつやな」
亮は俺の膝からまたずるっと降りて、床に転がる。
ごろん。
そして、また床をばんばん。
「忙しいな」
俺が言うと、亮がすぐ返す。
「忙しい」
こうきが完全にツボに入る。
「だめや、可愛すぎる」
「可愛いだけちゃうで。床は犠牲になってる」
「床、頑張ってるな」
「床も支援者や」
「床支援者はおもろい」
亮がまた奇声を出す。
「あーー!!うあーー!!」
「はい、床支援者に声援入りました」
こうきが笑い転げる。
「すばる、ほんま返しがずるい」
「笑いすぎや」
「だっておもろいもん」
「亮が上がるで」
「もう上がってる」
「たしかに」
亮はテンションが上がりきって、床に寝たまま手足をばたばたさせる。
でも、さっきみたいな荒い叩きではない。
勢いはあるけど、楽しさ寄り。
「あーー!!」
「はい、声でかい」
「ちゃう」
「いや、でかい」
「ちゃう」
「近所にライブ配信されるで」
「ちゃう」
こうきが言う。
「ライブって何歌ってるん?」
「亮の新曲」
「タイトルは?」
「りょあかんするよー」
こうきが爆笑する。
亮がその言葉を拾う。
「りょあかんするよー」
「ほら、本人も歌った」
「やばい、ほんまにタイトルになった」
俺も笑ってしまう。
でも、ちゃんと見てる。
亮の声が大きくなりすぎてないか。
手が危ないところに当たってないか。
足がこうきに向いてないか。
全部見ながら、いじる。
止めるだけやと、亮はもっとやる。
でも、拾って返して、笑いに変えると、少しずつ音量が落ちる。
「亮」
「なに」
「手は床、優しく」
「ちゃう」
「床支援者、痛いって」
「ちゃう」
「優しくばん」
「ばん」
少し弱く叩く。
ばん、ではなく、ぽんに近い。
「それ」
「ちゃんと?」
「ちゃんと優しいばん」
こうきが感心したように言う。
「今、弱くなった」
「なったな」
「すご」
「できる時もある」
「毎回じゃない?」
「毎回ではない」
「でも今できた」
「そう」
亮はまた足をどんとしようとする。
「足も優しく」
「ちゃう」
「エアドリブル弱め」
「どん」
少し弱い。
「それ」
「ちゃんと?」
「ちゃんと弱め」
こうきが小さく拍手する。
「亮くん、すごいやん」
亮はこうきを見る。
数秒。
そして俺を見る。
「にちゃん」
「なに」
「すごい?」
「すごい」
「ちゃんと?」
「ちゃんとすごい」
こうきが小声で言う。
「今の、俺のすごい入った?」
「入った」
「やば」
「こういう感じでちょっとずつ入る」
「めっちゃ嬉しいな」
「嬉しいやろ」
「うん」
亮はまた「あーー」と声を出す。
でもさっきより小さい。
「音量下がったな」
「ちゃう」
「ボリューム三くらい」
「ちゃう」
「さっき十やった」
こうきが笑う。
「十あったな」
「今三」
「三なら全然いける」
「いけるな」
亮は床でごろごろしながら、俺の足に頭を近づける。
「にちゃん」
「なに」
「おる?」
「おる」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
「ひと」
「こうきおるな」
「ひとおる」
「おる」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
こうきが少し姿勢を正す。
「俺、ちゃんとおるで」
亮はこうきを見る。
今度は逃げない。
「……ちゃんと」
「そう、ちゃんと」
こうきが嬉しそうに笑う。
亮はまた俺を見る。
「にちゃん」
「なに」
「アイスする?」
「まだや」
「ちゃう」
「昼ご飯もまだや」
「ちゃう」
「順番な」
「ちゃんと?」
「ちゃんと順番」
「よし」
こうきが言う。
「順番もちゃんとなんや」
「何でもちゃんとや」
「ちゃんと便利やな」
「便利やけど、ちゃんと返さなあかん」
「返さんかったら?」
「何回も来る」
「なるほど」
亮がその証明みたいに言う。
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
こうきが笑う。
「ほんまや」
亮は少しずつ動きが小さくなってきた。
ごろごろはしてる。
でも床を叩く手はもう弱い。
足もどんどんではなく、軽くとん、と落ちるくらい。
奇声も「あーー」から「あー」に変わってる。
「落ちてきたな」
俺が言う。
こうきが小さく頷く。
「ほんまや」
「こういう時、急に静かにはならへん」
「ちょっとずつなんや」
「ちょっとずつ」
「手も足も声も、ちょっとずつ小さくなるんやな」
「そう」
「見てたらわかるな」
「見てたらな」
亮がまた言う。
「にちゃん」
「なに」
「おる?」
「おる」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
こうきが、少しだけ真面目な声で言う。
「なあすばる」
「ん?」
「亮くんってさ、俺とちょっと違うやん」
「違うな」
「俺も知的障害あるって言われてるけど」
「うん」
「全然ちゃうな」
「ちゃうな」
「どういう感じなん?」
俺は亮の手を軽く撫でながら答える。
「亮は知的障害が中程度くらいあって、あとADHDの特性も強い」
「ADHD?」
「動きたい、思いついたらすぐ体が動く、気持ちのブレーキがかかりにくい、みたいな感じやな」
「今みたいな?」
「今みたいな」
亮が横から言う。
「あーー」
「そう、それも今みたいな」
こうきが頷く。
「声も出ちゃうんや」
「出る」
「足も?」
「出る」
「手も?」
「出る」
「全部出るんやな」
「全部出る」
こうきは少し考える。
「俺は出えへんな」
「こうきはまた違う」
「俺は何やろ」
「こうきは、わかりにくいことが苦手やったり、段取りが抜けたり、でも人と関わるのは好きやったり」
「うん」
「体の特性もあるしな」
「筋肉のやつ?」
「そう」
「俺と亮くん、同じ知的障害でも全然ちゃうんやな」
「全然ちゃう」
こうきは亮を見る。
亮は床に横向きになって、俺の足元で「あー」と小さく声を出してる。
「でもさ」
こうきが言う。
「亮くん、楽しそうやな」
「楽しそうやろ」
「うん。大変そうにも見えるけど、楽しそう」
「それでええと思う」
「俺、最初びっくりしたけど」
「うん」
「今はちょっとわかる。全部、出てるだけなんやな」
「そうやな」
「止められへんだけで、悪いことしてるわけちゃうんやな」
「そう」
亮がそのタイミングで床をぽん、と軽く叩く。
「今のは優しいばんやな」
「ちゃんと?」
「ちゃんと優しいばん」
こうきが嬉しそうに言う。
「亮くん、優しいばんできたな」
亮はこうきを見る。
「……優しい」
「そう、優しい」
こうきが小さく返す。
亮はまた俺を見る。
「にちゃん」
「なに」
「ちゃんと?」
「ちゃんと優しい」
「よし」
こうきが手を胸に当てて言う。
「今の、ちょっと会話した気する」
「したな」
「したよな?」
「した」
「やった」
亮はそのまま、ごろっと体を俺の方へ寄せる。
頭が俺の膝に当たる。
「にちゃん」
「なに」
「お膝」
「今は頭だけやな」
「ちゃんと?」
「ちゃんと頭お膝」
こうきが小さく笑う。
「ちゃんと頭お膝」
「新しいやろ」
「新しいな」
亮は目を閉じかける。
完全に寝るわけじゃない。
でも、明らかに落ちてきてる。
「にちゃん」
「なに」
「おる?」
「おる」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
こうきがその様子を見て、ぽつっと言う。
「なあ」
「ん?」
「俺、ここおってええんやんな」
「ええで」
「亮くんも、俺おって大丈夫そう?」
亮は返事しない。
でも、こうきの声がした方へ少し顔を向ける。
それだけ。
「大丈夫やと思うで」
「そっか」
こうきは嬉しそうに笑う。
「俺、ちゃんとおるわ」
「おれもちゃんとおる」
「すばるはおらなあかんやろ」
「せやな」
亮が小さく言う。
「ちゃんと」
俺が返す。
「ちゃんとやな」
こうきも続ける。
「ちゃんと」
三人で同じ言葉を置くみたいにして、部屋の空気が少しずつ静かになっていった。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!