俺ーー来栖佑は、出し物を終えたサッカー部を拍手で見送り、次の、自分の所属する男子バスケ部の先輩達による勧誘目的の出し物との合間の休憩時間に入ったということが分かった途端、首を回し、腕をぐっと伸ばし、軽くストレッチをする。
舞台に近い席だからか、結構首が痛い。
あー、この体勢もう疲れた、と溜息をつき、トイレに行こうと席を立とうとしたその瞬間。
幕の下がった舞台の近くで、司会らしき生徒が休憩のアナウンスの途中で、不意に悲鳴を上げる。
何だ何だとざわめく観衆。
何事か状況が掴めていない新入生と他校生。
その人の「問題児っぷり」を知っていて青ざめるその人の同級生の2年生達と先輩方の3年生。
司会からマイクを奪い取ったその人は。
俺の呟きは、きっと2年と3年の共通の気持ちだ。
にやりと不敵に笑う学校屈指の問題児、音寧結月。
舞台からひっそりと幕を捲って出てきたのだろうか、司会も驚いた様子で唖然として立ち尽くしてしまっている。完全に想定外の事態である。
端麗な容姿のため、新入生達は男女を問わず見惚れてしまっている。が、その問題児っぷりを、身に沁みて分かっている2年生達と3年生達は、今度は一体何をする気だ、と青褪めている。
音寧は固まってしまった観客に、丁寧でいてどこかおどけた様子でお辞儀をする。
ピアニストや、演奏家がするようなお辞儀。
様になっているお辞儀だった。その理由は当然。
深々とお辞儀をした音寧に合わせ、幕がゆっくりと開いていく。生徒達の口も開きっぱなしである。
と、同時に、舞台の黒く大きなグランドピアノから曲が奏でられる。弾いているのは、葉室未来。
いつの間に舞台の隅から移動させたのか、グランドピアノは中央に堂々と佇んでいる。
スポットライトの光の中で、葉室が堂々とピアノを弾く。蝶々。本当だ。蝶々が飛んでいるみたいだ。
硬質なピアノの音が体育館中に響いていく。
明るくて華やかな曲なのに、どこか軽やかでお茶目な雰囲気の曲。まさしく、蝶々。
指ってあんなに動くんだ、と指が、何本にも増えて見えるほど速く鍵盤を叩いている。
観客が、どんどん惹き込まれていく。
最後の和音を鳴らし、立ち上がった未来に、自然と拍手が鳴り響く。もう、観客達は、休憩の時間だということも、次のバスケ部の出し物のことも、忘れてしまっていた。もちろん、俺も。
拍手が収まったのを見て音寧が注釈を入れる。
少々ツッコミ所がある説明の仕方なのはさておき。
そう、その為の発表だ。勧誘のための。
葉室と交代で、舞台袖から立花が出てくる。
堂々とした歩き方。一種異様な程の落ち着き。
観客も、椅子に座った立花の静けさに釣られてすぐに静けさを取り戻した。
この異様な舞台を、楽しみ始めていたのである。
華やかな始まり。
鐘のように、高らかに始まり、どんどん音が増えていくにつれて華やかさと眩しさが増していく。
眩しい光を受けながら呆然と舞台を見上げる。そうする以外にその光を受け止められなかった。
ありえないような指の動き。跳躍。
鍵盤を叩く本人は、僅かな微笑みを湛えたまま。
華やかなのに、穏やかでもある、音。
最後の音を鳴らし立ち上がった柊に、呆然としたままの観客が拍手を送る。
ざわざわと体育館の一部がざわめく。
文月透。
最近転校してきた男子。
俺は唖然と口を開ける。文月は俺のクラスメイトでもあるのだ。
同じクラスの人達が驚きざわめく。ちょっと天然なところはあるが、問題児ではないはずが。
袖から、文月が出てくる。どこか不安定な足取り。
その目線の先のピアノ。文月の横を通り際、何かを立花が呟いたような仕草をした。
一瞬、鳥肌が立った。
その瞳に映っていたのは、喜びだった。
息をするように自然な始まり。
周りは草原。空が、青い。小鳥の囀り。どこかから聞こえる歌声。伸びやかで自由な音。
世界が彩られていく。
ピアノで、景色が変わっていく。
それと同時に、どこか息苦しさを感じる。
遠い遠い記憶。家族のこと。友達のこと。懐かしさで包まれ守られたそれらを、優しく世界へ戻すような。
哀しさと、痛みと、それを塗り替える喜び。
踊ってる。音が、踊ってる。
ふう、と鍵盤から身を起こし、文月が立ち上がり、まだ茫然自失としている観客に礼をする。
戸惑ったような、拍手。
音は、前の2人の方が安定していた。
どこかフラフラと危なげとして、まだ習いたてのような不安な感じもする。けど、それ以上に。
それ以上に、美しい。
微笑んで、音寧が舞台へと向かう。
不思議と、その姿は、荘厳な巫女のようだった。
くるくる風車が回るような音。
軽やかで、エンドロールを彩るような終わりの静けさも持ち合わせて。
景色が、変わる。
青。青。青。
海と空が光っている。
周りには、青と、春。
桜の花弁が青い空を舞っている。
綺麗、と思わず呟く。
孤独なのに、一人きりなのに。こんなにも美しい。
泣きたくなるぐらい美しいその音。
音楽は自由だ、というような呟き。
音寧の声のようにも、俺の声のようにも聞こえた。
音楽を、孤独を、喜びを、美しさを。
さみしさを。
ピアノが歌っていた。
最後の和音。
一瞬の静寂。
疎らに拍手が鳴り始める。どんどん数が増えて。
喝采の中、音寧はお辞儀をした。
晴れ晴れしい微笑みを浮かべながら、ピアノの近くに置いておいたマイクを取り、
何故だか、ほんとかよ、という文月の呟きが聞こえたような気がした。うん?空耳か?
そこで、音寧の声が止まった。理由は単純明快。
おそらく、司会の音楽祭実行委員が異常事態を伝達したのであろう。教師が舞台を止めに来た。
あまり気にしていなそうな様子で、あららという風に舌を軽く出す。舞台に向かって来る教師に背を向け、舞台袖の部員達に
という号令を聞き、ピアノ部の部員達が教師とは反対側の出入り口の扉へ向かい、音寧は最後に
とだけ笑顔で言い残し、部員の後を追っていった。
ようやく、体育館に音が戻ってくる。
今の何だったの、トラブル?でも凄かったねーなどという、戸惑いと興奮を含んだ言葉が体育館を飛び交う。体育館全体が、ピアノ部の発表に飲み込まれていた。教師と音楽祭実行委員は、殆どパニックのように騒がしくなった観客達に声を掛けている。
観客はその言葉も耳に入らずざわめいている。
舞台袖にはバスケ部が待機していた筈だが…ピアノ部の音寧による裏工作でバスケ部は観客席で待機していた為、バスケ部の先輩達が戸惑いながらも舞台へ向かって行く。良いように使われてしまったようである。多分先輩達が持っていた大量のメロンパンが賄賂であろう。ちょっと単純すぎませんか先輩。
内心で毒づきつつも、ピアノ部の演奏に心を奪われ呆然と座り込んでいたこともまた事実であった。
同時刻、ピアノ部は校内を走り回っていた。
発表を終え、先生から走り逃げていたその道中。
前を走っていた皆が振り返る。
平然と振り返る未来。体力化け物だろ。何でこんなハイペースで走ってて息も切らしてないんだよ。
僕と同じようにヘロヘロにへばっている柊、全力で共感する。何故男子が女子に体力で負けてしまうのだろうか。いやこれは未来が化け物なだけか。
息は荒いが根性で何とかしていた音寧さんも頷き、呼び出しアナウンスや呼び込みの声やお喋りの声で騒がしい廊下を歩く。
この中で運動が得意なのは未来だけらしい。
とは言いつつも、未来も楽しそうだった。
僕も…正直、この破天荒な発表を楽しんでいた。
溜息をつく未来を柊が肩をすくめて宥める。
去年は一体何をやらかしたんだこの人達は…。
うんうんと、頷く音寧さん。音寧さんの影響からか僕の価値観がおかしくなってきた。
まあそうかぁと思い始めてしまっている。…これは危ない、と一人青褪めつつ、
そうねーと未来が頷き、音寧さんは、じゃあ、と前置きして手を振る。
僕と柊、音寧さんと未来に別れ、騒がしい校内を歩く。やっぱり、こういう行事は無性に心が踊る。
同様に、いつもより表情の柔らかい柊に、今さっきから言いたかったことを切り出す。
舞台の上で、未だほんの少しだけ緊張していた僕の心を和らげてくれたのは柊の言葉だった。
音楽、好き?
すれ違い際に、柊はそう尋ねた。
僕は、咄嗟に答えられず、柊の目を見返した。
目の奥の輝きは、闘志にも、同志への親しみにも似ていて、いつもの考えの読めない柊にしては、珍しい瞳だった。
好きなら、見してみてよ。
視線が、柊からピアノに移る。
柊は僅かな微笑を残し舞台袖へと行ってしまった。
スポットライトに照らされて、その光を反射し輝く黒黒とした色の箱。
あの中には、何があるのだろう。
ピアノを始めてからずっと考えていたことがある。
何の為に、誰の為に、ピアノを弾くのだろう。
何を理由に、孤独な舞台に上がるのだろう。
一体、何故。
僕達は、音楽をするのだろう。
分からない。
分からないけれど。
スポットライトの下の、ピアノを見つめる。
僕は、音楽がしたい。今から、音楽ができる。
それは、僕にとって、途方もない喜びであった。
緊張など、すぐに忘れてしまうほど。
照れくさそうに顔を背けて柊が言う。
そして、少し首を傾げた。
柊は短く息を吐いた。憂うような溜息。
それで、少し重い空気は終わり。
いつも通りの和やかな会話。
2人のまだ未熟なピアニスト達が、校内の喧騒を、普通の男子中学生のように通って行った。
誰も、体育館の騒ぎの元凶だとは気づかずに。
その校内の片隅で、音楽家達の新たな物語が始まろうとしていることを、彼らはまだ知らない。
私と未来は教室が3階の柊と転校生と別れ、ゆったりとした歩みで校舎を歩く。
そんな会話の途中。
私は、振り向く。
呆然と見つめるその先には、幼い頃から数々のコンクールに出場し切磋琢磨してきた少女。
ーー百合乃。
同じく、過去に百合乃や私と同じコンクールに出ていた未来が驚きの声を上げる。
百合乃は現在、同世代のピアニストの中でも随一のピアニストだ。私がコンクールに出るのをやめてから、ずっとそうだった。
コンクールから逃げ、消えた天才と。
あらゆるコンクールで優勝する優秀な妹弟子。
何度言われたことか。けど、それは事実だ。
私が音楽から逃げたことは、本当だ。
だから、別にいいと、もういいと思っていたのに。
私の周りのピアニストはそれさえも許してはくれないのだ。私の知るピアニスト達は、馬鹿みたいにプライドが高くてそのくせ不器用な人ばかりだから。
音楽に関して妥協など出来ない音楽バカばかり。
猪突猛進に体当たりすることぐらいしか知らない。
そんな人達が、逃げることを許す訳がない。
もちろん、百合乃も。
体が強張るのが自分で分かった。
百合乃が何を言おうとしているのか、本当は分かっていた。分かっているけれど。
私はまだ。青春全てを捧げる、ピアニスト達の中に戻る覚悟も音楽で生きていく理由も無くしたまま。
けれど。
数多の、私が踏みしめていった才能あふれるピアニスト達は、止まることなど許してくれない。
百合乃は、真っ直ぐに私を見つめた。
その、馬鹿みたいに真っ直ぐな視線は、昔のまま、変わってはいなかった。
校内の喧騒が、遠ざかる。
今ここに、私と百合乃しかいないみたいだった。
私の、止まったままの過去が、今。
音を立てて、動き始めていた。


















編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!