深く息を吸って、吐く。
緊張、している。
耳の近くに心臓があるのかと思うぐらいの大きさの音で心臓が脈打っている。早まる鼓動を抑えるためにもう一度深呼吸をする。
よし、と拳を握る。緊張に微かに指が震えていた。
覚悟を決めて、お世辞にもあまり建てつけが良いとは言い難い扉をそっとノックした。
その少し前のことだ。
ピアノ部一同は部室に集合していた。
結月さんが腕を組んで言う。
ピアノ部は部室の中央に4つの椅子を丸く囲むよう置きそれぞれ座った。
音楽祭当日、放課後に集まる予定だったが各クラスの片付けなどで集まれずに翌日集まることになった。
そして、現在に至る。
内心何を言われるかヒヤヒヤしていた僕はにっこりと放たれた言葉にひそかにほっと息をつく。
そんな僕の気持ちを見透かしたように、音寧さんが厳しい声になり目を据わらせる。
しょんぼりと肩を落として項垂れる。
それを言われると本当に何も言えなくなる。
多少耳がいいだけで、初心者同然。練習の時間もそこまで無かったからミスタッチも多い。全国級のコンクール制覇経験者の音寧さんや同じく元コンテスタントの未来はともかく、去年始めたという柊よりも僕はピアノが下手だということは、既にこの発表で嫌というほど知りたくもないのに実感していた。
こんなんじゃ…と無意識に思いそしてふと考える。
僕は、こんなんじゃコンクールで戦えない、と考えて悔しく思っているのだろうか。
コンクール…コンクールに?
僕が?
とめどなくぐるぐると思考が頭の中を回る。
そう、発表会の直前、ステージで柊に緊張を解いてもらうまで、ずっと考えていた。
これからの自分。これからのピアノ部。
これからピアノを練習してどうなりたいのか。
これからピアノを弾いていく理由。
コンクールに、出たいのだろうか。
プロに、なりたいのだろうか。
いや、そもそもの話だ。
初心者の僕が、幼少期から気が遠くなる程の練習に貴重な人生を捧げてきた人達と、対等に戦えると?
普通に考えて、無理だろう。
それに、僕の目的はもともと音寧さんだ。
僕がピアノを弾くことじゃない。
音寧さんにピアノを弾いてほしいからだ。
僕は弾く理由さえ持ち合わせていない。
弾くことで、音寧さんをピアノに、音楽の世界に居続ける理由としてほしかったからだ。
満足げな音寧さんの声にはっと我に返る。
未来がべーと舌を出して音寧さんに苦言を呈する。
感情の読みにくい真顔で柊が音寧さんの援護射撃をする。一緒に音寧さんのスパルタな練習を乗り越えてきたからこそ分かる。この顔は満足げで音寧さんのことを自慢している時の顔だ。
若干引いた表情で未来が呟く。
柊はいつもどおり師匠の音寧さんを尊敬、いや崇拝しすぎな発言を恥ずかしげもなくさらっと言う。
何だかんだ言って未来と柊も仲良しだ。
有難き幸せとか言いそうなテンションで柊が喜ぶ。
音寧さんが今度は未来に向き直るのを見て、未来がうげとバレない程度に微かに顔をしかめた。
音寧さんは、練習中も未来には結構厳しいことを、というか耳が痛くなることを言いまくっていた。
何故か音寧さんにはピアノに関して未来への当たりが物凄く強いのである。
普段の斜め上から目線はどこへやら、後退る未来。
ところで椅子ごと後退るって地味に高等技術だな。
音寧さんはほんの少し首を傾げた、ように見えた。
まさかのべた褒めだった。
未来は信じられない、というような顔でぽかんとしている。はっ、と頭を振り堪えきれない様子で、おそらくまた褒めようとした音寧さんの言葉を遮る。
音寧さんはあどけない表情できょとんとする。
いつもの威勢はどこ行ったんだと言いたくなる程、わたわたと慌てふためく未来。
だいぶ混乱している様だ。
今度はやや訝しげに音寧さんが首を傾げる。
未来はぽかんとした顔で口を開ける。
しばらくして、変に目を泳がせながら口をモゴモゴさせる。そんないつもと真反対な未来の姿に、未来もやっぱり音寧さんのピアノに惹き込まれて、そんな人に褒められるのは嬉しいのだろう、と感じる。
ピアノ部男子2人はそんな未来を見て顔を見合わせ首を傾げてみせた。確実に面白がっている顔だ。
……まあ、僕も柊のことは言えないぐらいニヤニヤしていたんだけど。
と、それに気付いた未来が睨んでくる。
未来が、っていうかピアノ部女子怖い…。
この部活は圧倒的に女子が立場が上なのである。
女子怖い、と柊と2人震えていると、不意にドアがノックされた。小さな音で、控えめすぎるノック。
誰だろう、とピアノ部一行が首をひねる前に、これまた小さく通りにくい声が扉を越えて届く。
ガタガタと建てつけの悪い扉が開く。
扉を開いたのは、藍色の髪を2つ結びにしたまだ幼さの残る顔の1年生の少女だった。
瞳は紫色。緊張しているのか硬い光を宿している。
ちなみに学年が分かる理由は、学年によって上履きの色が違っていて、僕の学年は赤、3年生は青、1年生は黄、というふうになっているからだ。
それにしても…この顔、ちょっと前ぐらいにどこかで見たことがあるような…。どこでだろう、と首を傾げるも思い出すことができない。
視線が集まったからか、頬を赤く染めておどおどと言葉を紡ぐ後輩の少女に音寧さんが僕と同じく首を傾げながら問う。
何故そこで生徒会が出てくるのだろう。この部室に人が来るといったら生徒会なのか。どんな問題児集団だ。舞台ジャックをした時点でそうなんだけど。
というか入学したての1年生に生徒会と聞きますか普通。珍しい、いや初めてのことなのか音寧さんも狼狽えているのかもしれない。
俯いて自分の足のつま先を見つめながらあの…やその…と口どもる少女。ここにいるのは怖い先輩ではないから安心してほしい。
少女のつむじを見つめること数秒、意を決したように顔を上げて、林檎かと言いたくなるほど赤い顔のまま上擦った声で言う。
どんどん小さくなっていく言葉に、ぽかんと先輩であるピアノ部2年が顔を見合わせる。
最後の方はほとんど聞こえなかったが…とりあえず内容は分かった。つまり……。
一足先に硬直から解けた未来が、信じられないという表情のまま問いかける。
入部。
その言葉を頭の中で5回ほど繰り返す。
入部…入部…。………え、入部!?
驚きすぎて立ち上がりそうになるのを堪えてぽかんとしたままの音寧さんと見つめ合う。
そのあどけない表情が、喜びに染まっていく。
入部希望者が、ついに来た!!
僅かに目を見開いて、いつも音寧さんのこと以外はクールで落ち着いている柊も驚いた顔をしている。
音寧さんもびっくりと喜びが半々の顔をしている。僕も正直全く同じ気持ちだ。
自分が歓迎されていることを知ったからか、少しだけ緩んだ表情で自己紹介をした少女、恋の名字に小さな違和感、強いて言うなら既視感を感じる。
倉科?どこかで聞いたことがあるような……。
あっと声をあげそうになる。
そうだ。倉科理亜。生徒会副会長で、やたらとちょっかいをかけてきた、ウザ絡みしてきたあの人だ。
あの人の、妹?
……………何ていうか、性格が違いすぎません?
何故妹はこんなにしっかりしているのに姉はあんなに頼りない、もというざいのだろう。
この場の恋以外の誰もが感じた疑問は口に出すのはやめた。情けなさすぎるからだ。というかいくらなんでもそれを妹の前で言うのは可哀想すぎる。
恋は背負ったリュックサックから入部届を取り出し音寧さんに手渡した。
しげしげと入部届を眺める音寧さんに代わり、柊が自己紹介をする。
その問題児の音寧さんはやっと入部届から目を離し
慌てて僕も口を開く。
恋と年下の少女を呼び捨てにするのに慣れておらず口どもる僕にも恋は穏やかに笑いかけてくれる。
音寧さんがそういえば、と人差し指を立てる。
恋は今までの和やかな笑みを崩した。気まずそうに目を逸らして小さな声で言う。
自信なさげに言う恋にピアノ部2年は顔を見合わせ
ひそひそと言い合う情けない先輩達を不思議そうに眺める恋。情けない先輩達でごめん本当に。
未来に目で促されて音寧さんが咳払いをする。
ふにゃりと柔らかく笑った恋だったが、不意に考えるような顔になり、尋ねた。
今度は、音寧さんに視線が集まった。
音寧さんは、いつもと変わらない表情の奥にどうしようもないほど哀しげな感情を纏っていた。
帰り道、別方向の未来と柊と恋と別れ、音寧さんと道路を歩いていた時、僕は部活の時からずっと気になっていたことを聞いた。
小さな子供みたいに肩を揺らして驚き、立ち止まった音寧さんの姿に、やっぱり、と確信を得る。
部活の時も、どこかずっと遠い場所を見つめてぼんやりしていた。いつもはハキハキしているのに、今日は様子がおかしかった。
昨日、教室に帰るために別れたあと、何かがあったのは明らかである。が、未来は何も言わない。
音寧さんに聞くしかないことだと思って聞いた。
それが、たとえ過去に関わることだとしても。
曖昧に笑って、新入部員の恋へ説明をしたり顧問の水瀬零先生へ入部届を提出しに行ったりとしていたら既に日は落ち夜の闇が覆う空を見上げる。
音寧さんは迷子の子供のように細い声で呟いた。
そう言ってから、僅かに首を傾けた。
音寧さんは、分かりにくいながらも目を見開いて、それから苦笑した。少しだけ、嫌な笑い方だった。
小さく溜息をついて、呟く。
僕は思わず立ち止まった。
コンクール。
僕の、ピアノを弾く理由となりうるもの。
音寧さんの、過去が残るもの。
音寧さんは口元だけで笑った。いや、嗤った。
いつものまっすぐな笑い方でなく、ぎこちない。
僕は、音寧さんを見つめた。
真意を、過去を、本当のことを、知りたくて。
音寧さんも、見つめ返してくる。
どんどん瞳の温度が冷えていくような錯覚がした。
音寧さんの瞳には、無機質な光が宿っていた。
捨て去りたい過去を見せつけられているみたいに。
思いがけない相手から、頬を叩かれたみたいに。
音寧さんは、小さく笑った。
けれどその瞳には、小さな拒絶が浮かんでいた。
立ち尽くす僕を追い越すように、音寧さんは歩いていった。僕は、動けないままだった。
月を覆う黒い黒い雲。
その景色の向こうで、雷鳴が鳴っていた気がした。

















編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。