気づけば、ふたたび老医師夫婦の山小屋の布団の中に横たわっていた。
いつ、どのようにしてこの場所へ連れ戻されたのか。弓弦を引き裂かれたあの絶望の夜から、どうやってここまで生き延びたのか、記憶の断片は泥のように濁っていて、ほとんど何も思い出せなかった。
身体が信じられないほど重い。
肺の腑(ふ)が内側からじりじりと焼け付くように痛み、呼吸をするたびに鋭いガラスの破片を飲み込んでいるかのような錯覚に陥る。
重いおぞましい銀の睫毛を震わせ、ゆっくりと目を開けると、見慣れた簡素な木の天井がぼやけた視界の中に広がった。
優しく部屋を満たす、囲炉裏の薪が爆ぜる匂い。
そして、鼻を突く苦い薬草の香り。
そこには、あの日々と同じ温もりが確かに存在していた。
そして——それ以上に、耐え難いほどの「静寂」が、部屋を支配していた。
耳を澄ましても、あのお馴染みの完璧な、美しい衣擦れの音は聞こえない。
ゆっくりと瞬きを繰り返していると、襖の向こうから、ぱたぱたと微かな足音が近づいてきた。
「あぁ……お目覚めかい、お嬢さん」
入ってきたのは、心配そうに目元をくしゃくしゃに歪めた老婆だった。
割れた土器のようにひび割れた、かすれた声を喉の奥から絞り出す。
「……ゆづる、は……?」
返事は、すぐには返ってこなかった。
老婆は持っていた盆をそっと床に置くと、ただ悲痛そうに視線を泳がせる。
その一瞬の、痛切な沈黙だけで。
胸の奥の血液が、一気に氷結していくのが分かった。
老婆は私の枕元へ静かに腰を下ろし、折れそうな細い手を優しく包み込む。
「……あの若者はね、お前さんの父親の男たちに、縄をかけられて連れて行かれたよ。お前さんを絶対に傷つけないことと引き換えに、奴らの言う通りに大人しく従ったんだ」
何も言わずにただ黙り込んだ。
分かっていた。すべて、あの松明の赤い光の中で見ていたはずだった。
それでも。こうして第三者の口から明確な言葉として突きつけられると、弓弦がもうここにいないという残酷な現実が、容赦なく彼女の輪郭を削り取っていく。
ゆっくりと視線を天井の木目へと戻した。
「……そう、……。あたくしを、置いて……」
老婆は、かけるべき慰めの言葉を探すように、何かを言いかけては唇を震わせる。けれど、結局は何も言えずに、ただ彼女の手を握りしめることしかできなかった。
それ以上は何も尋ねなかった。これ以上、彼の行方について詳しく聞いてしまえば、胸の檻が完全に壊れて、息ができなくなると知っていたからだ。
しばらくして、薬籠を背負った老医者が静かに部屋に入ってきた。
いつものように手首をとり、長い沈黙の中で脈を診る。
白濁した額にシワだらけの手を当て、熱を確かめる。いつもと変わらない、丁寧な診察。
けれど、老医者の顔は、かつてないほどに深く、重く沈み込んでいた。
「……熱がまた、一段と上がっとるな。体内で病が暴れておる」
カサカサに乾いた唇の端を、力なく歪めて小さく自嘲気味に笑った。
「……いつもの、ことよ。あたくしの身体なんて、最初からこうだもの」
「そうだな……」
老医者はそれ以上言葉を重ねず、静かに、けれど酷く切なげに返事をした。
そのままゆっくりと壁のほうを向いて寝返りを打った。
……不思議なほど、涙は一滴も流れなかった。
泣き叫び、狂ってしまえればどれほど楽だっただろう。
けれど、涙が溢れるよりも早く、胸の最奥にぽっかりと巨大な空洞が空いてしまったようだった。
弓弦が、いない。
いつも自分を影のように守り、傲慢なほどに深く愛してくれたあの男が、もう自分の手の届かない場所へ奪われてしまった。
その圧倒的な喪失感だけが、やけに生々しい現実味を持って、彼女の肺を苦しく圧迫し続けていた。
その日から。
ただひたすらに「待つ人」となった。
老夫婦には何も語らず、自らの心の内を一切明かさぬまま、ただ頑なに、彼を待ち続けた。
朝になれば、どんなに身体が痛もうとも、這うようにして日当たりの悪い縁側へと出る。
老夫婦は、必死になってそれを止めた。
「お嬢さん、山の風はもう冷たいんだ。そんな身体で縁側にいたら、今度こそ命に関わるよ」
「無理をしては駄目だ。大人しく布団の中で休んでいなさい」
それでも、頑として二人の忠告に耳を貸さなかった。
弓弦が残していった藍鼠の上着をきつく身体に巻き付け、薄い膝掛けに小さくくるまりながら、ただ一点——あの夜、彼が松明の光の向こうへと消えていった、うねる山道の先だけをじっと見つめ続ける。
さらさらと、冷たい風が髪を揺らす。鳥が寂しげに鳴き交わす。
けれど、誰も来ない。
昼が過ぎ、太陽が山の端へと傾き、辺りが朱色に染まる夕方になっても。夢主は微動だにせず、壊れた人形のようにそこに座り続けていた。
老婆が、湯気の立つ苦い薬の椀を運んでくる。
「ほら、お茶代わりにこれをお飲み。もう夜露が降りてくる、中へ入りなさい」
「……まだ、入らないわ」
「お嬢さん、そんなことをして何になるんだい。お前さんの身体がもたないよ……っ」
視線を頑なに山道の先へと向けたまま、消え入りそうな声で、けれど狂信的なほどに確かな響きを込めて言った。
「……迎えに、来るから」
老婆は絶句し、それ以上言葉を紡ぐことができなくなった。
膝掛けの上で自らの真っ白な指先を見つめる。
来る。あの弓弦が、嘘を吐くはずがない。あの別れの瞬間、男たちに押さえつけられ、無様に泥に塗れながらも、彼は確かに自分を見つめて約束してくれたのだ。
——必ず、迎えに参ります。ですから、どうか生きていてください。
あの人は、あたくしの完璧な従者は、軽々しく守れない約束を口にするような男ではない。
だから、あたくしはここで待っている。ただそれだけ。
それだけが、今の自分が息を繋ぎ止めるための、唯一の拠り所だった。
けれど、彼女の宿痂(しゅくえん)は、どこまでも残酷に進行していった。
数日も経つと、ただ縁側へ出て座っているだけで、肺が酷く喘(あえ)ぎ、激しく息が切れるようになった。
「……っ、げほっ! ごほっ、げふっ……!!」
激しい咳と共に、手のひらへ溢れ出る鮮血。
上着の袖が、みるみるうちにどす黒い赤に染まっていく。
老医者はそれを見て、苦渋に満ちた顔で彼女の肩を掴んだ。
「もう限界だ、部屋で休め! 死にたいのか!」
「……嫌よ!」
激しく首を振って老医者の手を拒絶した。
「……ここに、ここにいるわ……っ。部屋に入ったら、あの人が戻ってきたときに、すぐに見つけてあげられないもの……!」
「嬢ちゃん……!」
「……来るわ。絶対に、あたくしを迎えに来てくれる……っ」
その言葉は、もはや半分、崩れ落ちそうな自分自身へ必死に言い聞かせるための、悲痛な呪文のようだった。
夜になり、強制的に布団へ戻されても、一睡もすることができなかった。
夜風で襖がガタタと小さく鳴るだけで、胸が痛いほど激しく跳ね上がる。
廊下で老夫婦のどちらかが歩く足音が聞こえるたびに、ハッとして弾かれたように顔を上げる。
(弓弦……?)
けれど。
何度も、何度も、何度も。
訪れるのは彼ではなく、ただの冷たい夜風か、心配そうに様子を見に来た老婆の影だけだった。その度に、私の心は粉々に砕け散り、また少しずつ死へと近づいていく。
ある冷え込む夜、囲炉裏の前で老婆がぽつりと、切なそうに呟いた。
「……あの若者に、こちらから文の一通でも出せないのかねぇ。居場所くらい、町へ出れば調べようもあるだろうに……」
布団の中で静かに目を伏せた。
「……無理よ。あたくしの父が、そんなものを許すはずがないわ。きっと、あの人は今頃……屋敷の奥で、厳重に監視されているはずよ」
父のことだ。自分を裏切り、道具である娘を盗み出した従者を、簡単に許すはずがない。下手をすれば、地下の檻に閉じ込められているか、あるいは——。
そこから先の最悪の想像を、必死に頭を振って打ち消した。
それでも。どんなに絶望的な状況であっても、胸の奥の灯火だけは消えなかった。
弓弦なら。あの、あたくしのすべてを奪い、すべてを捧げると誓った男なら。
どんな鎖に繋がれていようとも、どんな檻に閉じ込められていようとも、きっと、何とかして私の元へ戻ってくる。
だって、あの人はそういう、常軌を逸した人だから。
だから、あたくしは待つの。
日に日に肉が落ち、骨と皮ばかりになっていく華奢な身体で。
胸を引き千切るような激しい咳に血を吐き散らしながらも。
毎朝、縁側へ座り、ただ真っ直ぐに、あの寂しい山道の先を見つめ続けていた。
周囲の山々は、少しずつ葉を落とし、白く枯れ果てていく。
二人の逃避行を阻んだあの冷たい嵐のあとに、世界を白く凍らせる、残酷な冬の気配が、すぐそこまで近づいていた。












編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。