第103話

Vol.11
27
2019/12/05 23:41
「ククク、勇気さんか、いい名前だ。処で済まないんだが」 
「何でしょうか」
この男はこの界隈を三宅組が仕切っていることを知っているのだろうか。いや、それどころがこの大阪には色んな組織が入り組んでいる。
「もうすぐ客が来るんだが、クク、出来れば今夜この店を借りきりたいんたが」
「まさかご冗談を」
その時一人の女性客が入って来たことを確認した。
「うわぁ、凄う。そのカード、キラキラやん」
テーブルに投げ出されたcredit card、私は初めて見た。
「冗談でないことが判ってくれたかな、クク。アユちゃんはどちらのカードがいいのかな?」
「こっちのキラキラしたカードがいいやろか。これ何ていうカードなん?」
「Visa Infinite Exclusiveというカードだ」

『Visa Infinite Exclusive』と呼ばれるこのカードは、純金と、ダイアモンド26粒、そして真珠でできているクレジットカード。所有するには、カード自体の価格6万5000ドル(520万円)と、口座への預金3万5000ドル(約280万)、合わせて10万ドル(約800万円)が必要となる。

使うたびに表面が擦れていき、ボロボロになってしまうことが目に見えているだけに、果たして10万ドルも払って手に入れる価値があるのかは難しいところ。ただし、さすがに本物の“ゴールドカード”なだけあり、所有者の特典も極めて豪華。ホテルやレストランのディスカウント、空港のVIPラウンジの使用はもちろんのこと、iPhone5とMontblancのカードケースも無料で付いてくるそうなのだ。数量限定なので、お金が有り余っているという大金持ちの人なら、記念に1枚持っていれば話のネタくらいにはなるかも!?
言葉が詰まってしまった。まさかJPモルガンの……
本物なのかしら…

金融大手JPモルガンが、プライベートバンキング部門(PB)顧客で、3000万ドル(約24億円)以上の資産を持つ人を対象にしたパラジウム製のクレジットカードを発行することになった。 (中略) 有資格者は、JPモルガンのPB部門の顧客で、なおかつ資産3000万ドル以上と相当ハードルが高く、アメックスセンチュリオン以上の難関でもある。年会費は600ドルと高いものではないが、使用の上限額はないという。

「松山さんでしたね。少し席を外させて頂けないでしょうか」
「ククク、構いませんよ。それと、彼方の同業者の方にも伝えて下さい。銀流会の松山だということを。クク、ククク」
噂には聞いていたVisa Infinite ExclusiveやJPモルガンのパラジウムカードのことは…。
何て言えばいいのかしら…言葉にすれば甘く危険な香り―――――と言えるかもしれない。

米金融大手JPモルガンが、プライベートバンキング部門(PB)顧客で、3000万ドル(約24億円)以上の資産を持つ人を対象にしたパラジウム製のクレジットカードを発行することになった。 (中略) 有資格者は、JPモルガンのPB部門の顧客で、なおかつ資産3000万ドル以上と相当ハードルが高く、アメックスセンチュリオン以上の難関でもある。年会費は600ドルと高いものではないが、使用の上限額はないという。
★ジョン・モルガン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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ジョン・ピアポント・モルガン
J. P. Morgan

ジョン・ピアポント・モルガン

生誕 1837年4月17日
アメリカ合衆国 コネチカット州 ハートフォード

で生まれた。父はマサチューセッツ州ホールヨーク出身の銀行家ジューニアス・スペンサー・モルガン(1814年-1891年)、母は教会の牧師の娘だったジュリエット・ピアポント(1816年-1884年)。 ピアポントは、父・ジューニアスにより種々の教育を授けられ、1848年秋、ハートフォード・パブリック・スクールに転科した後、チェシャの英国国教会アカデミー(Episcopal Academy、現チェシャ・アカデミー)に首席で進学。1851年9月には、キャリアとなるために有効な数学に秀でているボストン・ハイスクールに入学した。 1852年9月、リウマチ熱に罹患し、歩けないほどになった。ジューニアスはすぐに船を手配し、モルガンをポルトガル北部のアゾレス諸島に転移療養させた。約1年後に回復し、ボストンに戻って勉学を続けた。 ハイスクール卒業後、ジューニアスによりスイスのヴェヴェイ近くにある学校に進学。流暢なフランス語を取得後、今度はドイツ語取得のためにゲッティンゲン大学に進学。6ヶ月である程度のレベルに達し、芸術の歴史もかじったあとヴィースバーデン経由でロンドンに戻り、学業を修了した[1]。
1857年、モルガンは父の経営する銀行のロンドン支店に入社。翌年、ニューヨークに移り、ジョージ・ピーボディ・アンド・カンパニーのアメリカ代理店であるダンカン・シェアマン・アンド・カンパニーに勤務。1860年には、J・P・モルガン・アンド・カンパニーを設立し、父の会社のニューヨーク代理店のエージェントの役割を果たした。1864年には、ダブニー・モルガン・アンド・カンパニーを構成。1871年、フィラデルフィアの銀行家であるアンソニー・J・ドレクセル(Anthony Joseph Drexel I)と提携し、ドレクセル・モルガン・アンド・カンパニーを設立した。ドレクセルが1893年に死去した後、1895年にJ・P・モルガン・アンド・カンパニーとなり、現在のJPモルガン・チェースへとつながる。 南北戦争時には、モルガンは旧式のライフルを1挺3.50ドルで購入し、改良したのちに22ドルで北軍に売却するというスキャンダルがあった。モルガン自身は他の富裕層同様、1000ドルを代理人に支払うことで兵役を免れていた。
J・P・モルガン・アンド・カンパニー[編集]
J・P・モルガン・アンド・カンパニーは、フィラデルフィアのドレクセル・アンド・カンパニーをはじめ、パリのモルガン・ハージェス・アンド・カンパニー、ロンドンのJ・S・モルガン・アンド・カンパニー(1910年からはモルガン・グレンフェル・アンド・カンパニー)と密接な関係を持ち続けた。1900年までに、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは世界でもっとも力のある金融会社となり、とりわけ再編・再建と統合を手がけることで知られた。そのころ、モルガンは、ジョージ・パーキンスをパートナーとした。 モルガンの権力志向はダイナミックな金融の競争において見られた。1869年、ジェイ・グールドとジム・フィスクからアルバニー・アンド・サスケハナ鉄道の経営を奪取。モルガンは株を引き受けるシンジケートを率いて、ジェイ・クックが独占していた政府の資金調達の役割を奪取。また、鉄道開発への投資に深く関わるようになる。 モルガンはヨーロッパで多額の資金を調達したが、単にそれだけではなく、鉄道の再建と効率化も併せて実行し、投機的な利益に興味を持つ投機家たちと戦いながら、革新
的な鉄道輸送システムというビジョンを作り上げた。
1885年、モルガンはニューヨーク・ウェスト・ショア・アンド・バッファロー鉄道を再建し、ニューヨーク・セントラル鉄道(NYC)に貸し付けた。1886年にはフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道を、1888年にはチェサピーク・アンド・オハイオ鉄道(C&O)を再建した。そして、「レールロード・タイクーン」と言われたジェームズ・ヒルとともにグレート・ノーザン鉄道(GN)の経営に深く関わっていく。
鉄道トラストとモルガニゼーション[編集]
1887年に州際通商法が成立した後、モルガンは1889年と1890年に鉄道会社の首脳を集めた会議を開き、各鉄道会社が新法に合わせた営業活動を行うことと、「公共的で、安価で、一定で、安定した運賃」を維持するための協定を結んだ。この会議は競合する鉄道会社同士のコミュニティとして機能し、20世紀初頭の鉄道の大再編への道筋となるものであった。 このような、モルガンの行った経営困難に陥っている鉄道を再建させる手法はモルガニゼーションと呼ばれた[2]。モルガンは事業の骨格とマネジメントを再編し、利益が出せるようにした。モルガンの銀行家としての名声は投資家たちの興味を誘い、モルガンが手がける事業に目を向けさせた[3]。 こうしたトラスト形成の過程で、1901年にはエドワード・ヘンリー・ハリマンとの間でシカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道(CB&Q)の争奪戦が起こり、ノーザン・パシフィック・コーナーと呼ばれる株式の異常高騰を誘発した。それが原因で起こったのが1901年恐慌である。経緯についてはノーザン・パシフィック鉄道を参照されたい。
合衆国の「中央銀行」として[編集]

モルガンの経済界における役割は、連邦政府より大きいと認識されており、この戯画では小さなアンクル・サム(アメリカを擬人化した人物)と大きなモルガン、即ちアメリカ全体より大きなモルガンとして描かれている。1881年。

1895年、1893年恐慌の影響でアメリカ合衆国財務省の保有していた金の海外への流出が続き、底を突きかけた。シャーマン銀購入法(英語版)により、アメリカが事実上の金銀複本位制をとったために、ヨーロッパにおいてアメリカの有価証券に対する信用が落ち、ヨーロッパの資本家が金に換えてしまったのである。
当時の民主党のグロバー・クリーブランドアメリカ合衆国大統領は、モルガンにウォール街のシンジケート(債権を引き受ける銀行団)を組織し、財務省に6,500万ドルの金を調達するよう要請。その半分はヨーロッパから調達し、財務省の1億ドルの債権の信用回復に使用されることとされた。このエピソードが、ヨーロッパ資本の引き上げ傾向に歯止めをかけて財務省を救済したが、クリーブランドにダメージを与え、1896年の大統領選挙において同じ民主党のウィリアム・ジェニングス・ブライアンにより激しい非難を浴びた。モルガンとウォール街の銀行家たちは共和党のウィリアム・マッキンリーに多額の寄付を行い、マッキンリーは同年と、金本位制をうたった1900年の大統領選で勝利した[4]。マッキンリーは反トラスト法を発動させない、経済界にとっては都合のいい大統領であった。 なお、クリーブランドはモルガンの義父の法律事務所で働いたことがあり、モルガンと近い間柄であり、かつ金本位制の推進者であった。
海運トラストの形成[編集]
モルガンは東部・西部ともに鉄道網に深く関わっていたが、その頃、アメリカ西部の貨物は鉄道で東海岸に運ばれ、イギリスの海運会社などによりヨーロッパに運ばれていた。大西洋の航路は、モルガニゼーション以前の鉄道業界と同じく、運賃の値下げ競争が激しく、業界が疲弊していた。陸上輸送(鉄道)を支配していたモルガンは、海上輸送を他人の手に委ねておく手はないとし、海運業界の統合・支配を画策した。これにより、アメリカ西部の貨物をモルガンの息のかかった運送会社のみを経由してヨーロッパに届けることができるようになった。 1902年、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは大西洋の海運の統合をめざし、モンテズン・ラインやイギリスの海運会社を買収、国際海運商事(International Mercantile Marine Co.、IMM)を設立した。IMMはホワイト・スター・ラインの親会社であり、タイタニックを建造・就航させたことで知られる。陰謀説もある[5]。

鉄鋼トラストの形成[編集]
モルガンはフェデラル・スチールの創立に融資したのち、カーネギー・スチール(Carnegie Steel Company)及びその他数社の製鉄企業を合併してUSスチールを設立。カーネギー・スチールの買収額は4億8700万ドルであった[6]。この取引は弁護士や契約書が介在しない取引であった。 この買収劇がメディアに届いたのは1901年1月半ばであった。同年、モルガンはいくつかの鉄鋼会社を統合しUSスチールを設立した。USスチールは世界初の10億ドル企業となり、株式の時価総額は14億ドルとなった[7]。 USスチールは輸送経費・生産経費の削減と配当の増大とを両立させ、生産性の拡大をめざした[6]。これはまた、アメリカの製鉄が国際的な市場においてイギリスとドイツを打ち負かすための計画でもあった。USスチールは、初代社長のチャールズ・シュワブらにより、グローバリゼーションのために必要だと主張された[6]。USスチールはアメリカン・ブリッジやアメリカン・スチール・アンド・ワイヤーなどの企業を傘下に納め、鉄鋼生産だけでなく橋梁製作、造船、鉄道車
両やレールの製造、ワイヤー、釘その他の生産においても他を圧倒しようとしており、シュワブは、1901年には鉄鋼生産の3分の2を占めたUSスチールのシェアはすぐに75%にまでなると信じていた[6]。批評家たちはUSスチールをトラストだと考えていた。 しかしながら、1901年以降、シェアは落ち込んだ。シュワブ自身が、自らの予測を覆す役割を演じたのである。すなわち、USスチールは巨大に過ぎた。シュワブは1903年にUSスチールを辞し、ベスレヘム・スチール(現ミッタル・スチール)を設立。建設現場で使用されるH形鋼を開発するなどしてアメリカ国内のシェアでは第2位となったのである。
電気・無線への投資[編集]
モルガンは後のゼネラル・エレクトリックを作るためにエジソン・ゼネラル・エレクトリックとトムソン・ヒューストン・エレクトリックの合併を実現させた。後述のように、自邸を初の電化住宅とし、個人の家として初めて電灯が灯った。

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