第3話
序章💧君に聞いた物語*3
彼女の母親は、
もう何ヶ月も目を覚まさないそうだった。
小さな病室を満たしていたのは、
バイタルモニターの規則的な電子音と、
呼吸器のシューという動作音と、
執拗に窓を叩く雨音。
それと、長く人の留まった病室に特有の、
世間と切り離されたしんとした空気。
彼女はベッドサイドの丸椅子に座ったまま、
すっかり骨張ってしまった母親の手をぎゅっと握る。
母親の酸素マスクが規則的に白く濁るさまを眺め、
ずっと伏せられたままの睫毛を見つめる。
不安に押しつぶされそうになりながら、
彼女はただただ祈っている。
お母さんが目を覚ましますように。
ピンチの時のヒーローみたいな風が力強く吹きつけて、
憂鬱とか心配とか雨雲とか暗くて重いものをすっきりと吹き飛ばし、
家族三人で、
青空の下を笑いながら歩けますように。
ふわり、と彼女の髪が揺れた。
ぴちょん、と耳元でかすかな水音が聞こえた。
彼女は顔を上げる。
閉め切ったはずの窓のカーテンがかすかに揺れている。
窓ガラス越しの空に、彼女は目を引き寄せられる。
いつの間にか陽が射している。
雨は相変わらず本降りだけど、雲に小さな隙間が出来ていて、
そこから伸びた細い光が地上の一点を照らしている。
彼女は目を凝らす。
視界の果てまで敷き詰められた建物。
そのうちの一つのビルの屋上だけが、
スポットライトを浴びた役者みたいにぽつんと光っている。
誰かに呼ばれたかのように、
気づけば彼女は病室から駆け出していた。
そこは廃ビルだった。
周囲の建物はぴかぴかに真新しいのに、
その雑居ビルだけは時間に取り残されたかのように茶色く朽ちていた。
「ビリヤード」とか
「金物店」とか
「うなぎ」とか
「麻雀」とか、錆びついて色褪せた看板がビルの周囲にいくつも貼りついていた。
ビニール傘越しに見上げると、
陽射しは確かにここの屋上を照らしている。
ビルの脇を覗くと小さな駐車場になっていて、
ぼろぼろに錆びついた非常階段が屋上まで伸びていた。
___まるで光の水たまりみたい。
階段を昇りきった彼女は、いっとき、
眼前の景色に見とれた。
手すりに囲まれたその屋上は二十五メートルプールのちょうど半分くらいの広さで、
床のタイルはぼろぼろにひび割れ、
いちめん緑の雑草に覆われていた。
その一番奥に、
茂みに抱き抱えられるようにして小さな鳥居がひっそりと立っていた。
雲間からの光は、その鳥居をまっすぐに照らしている。
鳥居の朱色が、
陽射しのスポットライトの中で雨粒と一緒にきらきらと輝いていた。
雨の濁った世界の中で、そこだけが鮮やかだった。