第57話

苦しい
6,199
2021/05/19 17:00



だから、羨ましかったんだ。


中学の頃に屋上で出会った彼が、

私と同じ無個性だった彼が、優しい両親の元で大切に育てられている事を知っていたから。





この世界の常識を目の当たりにする度に、私の家庭がどれだけ異常なのか分かっていった。

年中同じ冬物のセーラー服を着ていることも、

学校は毎日行くところだと知らなかったことも、

私を蝕む身体や顔の痣も、火傷の痕も、抉れたような傷跡も。





オーバーホールさんの言う通りだ。


心の何処かでは分かっていた。

でも、切望するだけ虚しいと気づいた私は蓋をし続けた。


普通になれない癖に、周囲に溶け込もうと必死になろうとした。


油は水とは決して一緒に居られない。


全部、無駄だと心の奥底では分かっていたというのに。



(それでも…)





いざ言葉にされると____









苦しい。








『グッ、』

我慢しようとして握りしめた服の上に、


『ポタッ、___ポタポタッ』


絶え間なく涙が振り落ちていく。



苦しい。

苦しい。

苦しい。




その言葉だけがぐるぐると頭の中で暴れていて、涙が止まらない。

だけど、どうして良いか分からない。

涙の止め方も分からない。

自分の居場所の作り方なんてもっと分からない。


『ポタポタポタッ、』

あなた
っ、…っっ、

嗚咽が漏れそうになるのを堪えながら、

私の視界から既に消えてしまった彼の背中を思い描く。

冷たい目と彼の雰囲気から怒っているのが分かった。
あなた
っ、っ、…っ、…、


怖くて泣いた事もある。


___痛くて泣いた事もある。



だけど、今は頭の何処を探しても、当てはまる名前が出てこない。


この涙は一体何?

どうしたら良いの?



だって、オーバーホールさんが…


怒っているのに、『お父さん』とは違う怒り方だから。


怖い筈なのに、何故か " 優しい " と感じるから。


こういう時、私は彼に何を言えばいいのだろう。


どうすれば良いのだろう。






顔を上げられずに下を向いていても分かった。

もう診察室にオーバーホールさんは居ないということは。


私の消え掛けの言葉は恐らく届かなかった。


何も言わず、ただ泣いているだけの私を見下ろして、

彼はこの診察室内から姿を消した。




徐々に遠ざかって消えていく彼の気配に、

私は瞬きも忘れて、

脳内に立ち込める真っ白な靄が頭を圧迫していく感覚に襲われていた。



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