ゾムは困ったように体をもぞもぞと動かす。感情表現が難しいゾムの体で不満を表す仕草だ。不満なのは分かるが、ここで駄々をこねていても何も進まない。
とはいえトントンにとってもこれはゾムが話を承諾してくれないとどうしようもない話だ。痛い沈黙がこちらを見つめるが、耐えることしかできない。
大きなため息が聞こえる。回答を貰えるのかと一瞬心の隅で期待が芽生えるが、その後の数秒の沈黙がその芽を摘み取った。
気不味い空気に耐えかね、爪と甘皮を弄る。自身の四角く不格好な爪を眺めていれば思ったよりも時間が経っていたようだ。覚悟を決めたのであろうゾムが丸まっている体を起こした。
言い過ぎただろうか。ちらりと様子を伺えば、ゾムは不機嫌とは言わずともなんだか納得していない様子だ。
それが自分自身への自問自答なのか、それともトントンの発言を噛み砕いて理解しようとしているのかどちらかなのかは彼の単調な表情を見て推し量る事もできない。
ゾムは勢いよく立ち上がり、カートゥーンのような派手な走り方で部屋から出ていった。あそこまで釘を差しておけば仕事に励んでくれるだろう。
彼自身なるべく空き時間に処理しているのは知っているが、それだけでなんとかなる仕事量ではないのだ。特に最近は平和なため相対的に書類仕事が増える。これをトントンやエーミール、ショッピなどの後方支援担当だけで捌き切るのも無茶な話なのだ。
彼の意思を尊重して好きな所に行かせてやりたいというのもトントンの思いだが、それと同じくらい仕事をして欲しかったし、ゾムがおかしくなったのではと心配だった。
半開きになった扉からゾムの背中を見つめ、トントンは不安を大気に吐き出す。
部屋の隅で存在を忘れられた仕事たちがうず高く積み重なっている。その中から適当な束を手にして机に放り投げた。
あそこまでトントンに言い寄られてしまえばもう脅迫だ。
普通の人間なら冗談だと受け流す所だがトントンは本気でやる。ゾムを剣で脅すし、なんなら部屋に閉じ込めるし、それも無理そうなら椅子に縛り付けるだろう。今のうちに言うことを聞いておけばそこまではいかずに済むはずだ。
とりあえず誠意は見せなければ。
埃を着ていたパソコンを開き、名前しか覚えていない小難しいアプリを立ち上げる。そこからマウスを使い、情報の海のうち一つのファイルを摘み上げた。
そこまで行けば半分は終わったようなものだ。
虚実を無理矢理言い聞かせて数値を入力していく。
これに何の意味があるのか、どんな数字を打ち込んでいるのかは何も分かっていない。とにかく数字を入れて確認してを繰り返す。だから事務仕事は嫌いなんだ。
硬い椅子の上に自分を縛り付けて、やることと言えば情報や企画書の確認とハンコ押し。ダブルチェックだトリプルチェックだと言われるが、ゾムを含めて誰一人中身に手を通す人間はいないだろう。とにかく思考を空っぽにして目の前の情報を処理していく。
しばらく時間が経てばこの単調作業にも慣れ、思考回路を他のことに回せるようになる。そうなってから初めて考えたのは鬱の事だった。こんな時も真っ先に浮かんでくるのだから自分は本当におかしくなってしまったのかもしれない。
彼は一人で平気なのだろうか。
なんだか脆そうな性格だったな、と漠然とした不安を感じる。ゾムが鬱に対して知っていることと言えば夜に泣いていた事とか、後は魔力がどうたら生まれがどうたらとかいう理解する気も起きないものだったが、なんとなく鬱が強い人物でない事くらい分かる。自分と話すだけでとても嬉しそうな顔をしていた男だ。少なくとも誰かといるのが好きなのだろう。あそこにいるのも誰かを待っているからだと言っていた。
そう考えると心配がさらに質量を増す。手を動かし続けるが、既に心の中は彼のことで埋め尽くされていた。
血が繋がっている訳でもなければ命の恩人でもないのに、なんだか助けなければならない気がする。自分が傍にいて、彼の心の支えにならなければいけないのだと、深層心理が訴えていた。とはいえゾムも心の声に理由なく従う男ではない。
彼にもやらなければならないことがあるのだ。
なんとか自分を仕事から引き剥がそうとする小さな自我を弾き飛ばし、また目の前の事に集中する。
そうしたら時も勝手に過ぎていった。気付けば夕食の時間帯だ。キーボードを叩く手を止め、背を伸ばす。あるはずもない背骨が鳴る音がした。
もうそろそろ皆が食堂に集まる時間だろうか。凝り固まった体を起こして部屋を出る。夕日が差し込む廊下の窓からは橙色に染まる酩酊の森がこちらを見つめていた。濃い霧のせいか、それとも大きな木々のせいなのか、ここから鬱の家を見ることはできない。当然だろう。彼の家にいる時も空を見ることができなかったのだから。こちらから見えたらおかしな話だ。
頭では理解していても意味がない小さな失望が心に浅い波を立てる。それがゆっくりと全身に広がり、大きくため息をついた。何も解決してくれないのに。
はやる気持ちを無視して食堂に歩く。少しでも気を抜いたら森へと走ってしまいそうで、実際は小走りだった。
食堂の扉を見て安心する。自分は鬱に狂ってなんかいない。自分で行動を制御できるのだ。
ノブに手をかけて回せば既に何人かが自由に座っていた。
ゾムも定位置に腰掛ける。すると、その横に誰かがそそくさと移動してきた。
一人で食べたいのに放っておいてくれ。
そう言おうとして口を噤む。
そう言う彼の顔はなんだか普段の彼とは全く違ったのだ。
胸の中でじっとしていた不安がまた暴れ出す。
落ち着け自分。たった一人の事で心を乱されてどうする。
そう言い聞かせるものの、心の猛獣に言葉など通じなかった。自分という殻を内側から叩かれて、おかしくなってしまいそうだ。肺を内側から圧迫されて酸素も回らず、上手く考えられない。
フォークを掴んだ手は、言う事を聞いてくれなかった。








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編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!