それは何の前触れもなく起こった。それまでみんなと一緒に歌っていたはずなのに、急に喉の奥が締め付けられるように苦しくなり、そして自分の声が消えた。一瞬、何が起きたのかわからなかった。ただ喉の奥からは空気の抜けたような音が聞こえ、その音には聞き覚えがあった。
ほんの数ヶ月前まで、何度も何度も聞いていた音。今も記憶の中に残っていたその音が聞こえたことに私はショックを隠せなかった。
どうしたらいいんだろう。もうすぐソロパートが来る。このままじゃ……。
一つ前の段にいた未冬ちゃんが心配そうに私を振り返る。隣で歌っている誉田さんも、さっきから何度も私の方へと視線を送ってきている。それでも何も言えない私は泣きそうになるのを必死に堪えながら首を振ることしかできなかった。
どうすることもできないまま歌は進んでいく。このままでは――。
隣から、誉田さんの声が聞こえた。思わず隣を見ると、彼女は顔は真っ直ぐ前を向いたまま小声で話を続けた。
誉田さんの言葉に必死に頷くと、パニックになりそうな気持ちを落ち着かせるために深呼吸を繰り返す。代わりに歌ってくれると言った誉田さんの言葉が、こんなにも心強いなんて思わなかった。
大丈夫、この曲は何回も何回も歌ってきた。あの旧校舎の音楽室で、暁斗君が弾くピアノに合わせて。
暁斗君の言葉がよみがえる。
私はそっと手をポケットの中に入れると、黒鍵をギュッと握りしめた。
――その瞬間、まるで黒鍵から旧校舎の音楽室での日々があふれ出すかのように流れ込んできた。暁斗君の優しさも、想いも全部。
どこからか暁斗君の声が聞こえた気がした。その声の場所を探そうとして――ピアノのそばに暁斗君の姿を見つけた。
ここに来ることはできないと言っていたはずなのに、どうして――。
そんな私の疑問に答えるように暁斗君はこちらへと視線を向けて微笑んだ。
こんなにも距離があるのに、みんなの歌声とピアノの音しか聞こえないはずなのに、どうしてかハッキリと暁斗君の声が耳に届いた。
そして、暁斗君と伴奏をしているクラスメイトの身体が重なった。その瞬間、体育館に鳴り響いたのは、旧校舎の音楽室で何度も何度も聞いた暁斗君の奏でるピアノの音色だった。
全身から声が、音が溢れてくる。自然と歌が口をついて出る。隣にいた誉田さんが「ふん」と鼻を鳴らしたのがわかった。でもその表情は今まで見たどの誉田さんよりも柔らかなものだった。
――合唱コンクールは、私たちのクラスの優勝で幕を閉じた。
嬉しそうに飛びついてきた未冬ちゃんの身体を受け止めながら、私はとんでもないと首を振る。
私の言葉を遮ったのは、憤慨したような表情を浮かべた誉田さんだった。
それだけ言うと、誉田さんは待っているクラスメイトの方へと向かって歩いて行った。残された私と未冬ちゃんは、態度とは正反対の誉田さんの言葉に、顔を見合わせて笑った。
私の言葉に未冬ちゃんは頷くと「なるべく早くね!」と言って一人教室へと戻っていく。そんな未冬ちゃんの姿を見送ると、私は旧校舎へと急いだ。
きちんと気持ちを伝えようと思った。実らなくてもいい。幽霊と人間の恋が上手くいくなんて思わない。それでも、私がどれだけ暁斗君に救われたか、どれだけ暁斗君のことを想っているか、それだけでも伝えたかった。
――でも。
旧校舎の音楽室はガランとしていて、誰の姿もなかった。いつも暁斗君が座っていた、ピアノの椅子も埃を被ってもう何年も使われていないかのように見えた。
でも、どれだけ暁斗君の名前を呼んでも、暁斗君が姿を現すことはなかった。
ふいに思い出す。暁斗君が合唱コンクールで伴奏をする予定だったんだ話していたことを。でも、前日に事故に遭ったせいで伴奏をすることは叶わなかったのだと。
コンクールの伴奏ができずに死んでしまったことがずっと心残りでこの場所にいたのだとしたら。
今日、合唱コンクールの伴奏をすることで未練がなくなって、それで――。
こんなことなら想いを伝えておけばよかった。暁斗君のことが好きだって。大好きだって、伝えておけばよかった……。
ポーン、と鍵盤を叩くとどこか調子外れの音がする。もう何年も調律さえされていないようなピアノの音が。
私がここで暁斗君と過ごしていた日々は幻だったのだろうか。本当は暁斗君なんて存在しなくて、私が勝手に産みだしていた幻……。
ポケットの中の黒鍵をギュッと握りしめる。暁斗君は確かにここにいた。それは、私が一番よく知っている。
もう二度と会うことはないのかもしれない。それでも、あなたと過ごした日々は私にとってキラキラと輝く宝石のような時間でした。
音楽室を出て、私は鍵を閉める。きっともう二度と私が使うことのない鍵を。
私の言葉は、誰もいない廊下に少しだけ響いて消えた。
音楽室をあとにして私は一人旧校舎の廊下を歩く。どこからか暁斗君の弾く『別れの曲』が聞こえてくる気がした。

















編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。