第34話

客席に残る香り
115
2026/02/11 08:59 更新



でも、曲が変わると、空気が一変した。



——静かで、柔らかく、少し切ない曲。
イントロのピアノの音だけが、会場に満ちている。



俺は息を整え、歌いながら視線を探す。



——あなた。



ステージの光は柔らかくて、
客席の顔はまだ見えにくい。




でも、あの背筋の伸びた立ち方、
瞳の光、髪の流れ、全部覚えている。



彼女は、一歩下がって観ているけれど、




まるで、俺の歌を一番最初に聴くためにここにいるみたいだった。



歌詞の一つ一つに、
思いを込める。




今日までの苦労、張り切りすぎた自分、
そして、この瞬間、ここで見つけた彼女。



——全部、伝えたい。



ピアノとストリングスの間に入るサビの静かなフレーズで、
俺は胸の奥の想いを、目で伝す。



彼女は、少し笑うように顔を緩める。




でも、まだ手は届かない距離。




その距離感が、今の二人にとって、
一番心地いいバランスだと、俺は感じる。



歌いながら、心の中で呟く。



「……来てくれて、ありがとう」




「……見てくれてるんだな」



曲の最後の一音が、会場に余韻として漂う。
そして、静寂の中で、観客の拍手が大きく広がる。



その瞬間、彼女の目が、はっきりと俺を見つめた。




微笑みは、以前より少しだけ柔らかく、
でも確かに、届いた気がした。



俺は小さく手を上げる。




——ステージの上からでも、
あの背中に、俺の気持ちは届く。



あなたは、頷いた。




その頷きが、
「今日も、あなたを応援してる」
というサインに変わる。



——今はまだ、手は届かない。




でも、距離は確かに縮まった。




そして、光の中で、二人だけの世界が、
静かに存在していた。



ステージ袖に戻ると、胸がいっぱいになる。




——今日、ここで歌えて、本当に良かった。




——明日からも、また全力で、進もう。



そして、視線はもう一度、客席に残る彼女を追った。




香りも、表情も、全部、忘れない。




プリ小説オーディオドラマ