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第4話

サーカス 🪼🐶
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2025/12/29 16:28 更新

 人魚のヨンジェさん(12歳)と、下働きのジフンくん(10歳)

 サーカスで見世物やらされてるし、めっちゃこき使われてます。
 
 コポコポと心地よい音と共に意識が深く沈んでいく感覚に包まれる。
 
 人魚のヨンジェは1人、大きな水槽のなかで微睡んでいた。

 客が皆帰り、二足歩行の人達で掃除する時間になったので、ヒレのあるヨンジェは昼寝をするのだ。

 疲れを癒やそうと水中を漂っていると、水槽の外から何かが擦れるような音が聞こえてきた。

ごろろ…ごろろ…

 聞き慣れた音。

 モップで掃除する音だ。

 ゆっくりと瞼を上げる。
 
 ヨンジェの目は水中での光の屈折が効かない。だから空気中にいるみたいに、水中でも遠くにあるものがクリアに見える。

 じっと見てみると、やはり『彼』だった。

ちゃぷん

 と音を立てて、その人物のそばまで泳ぐ。ガラスの壁をノックして、彼の意識をこちらに向けさせる。
ヨンジェ
ヨンジェ
ねぇ

 ぱっと顔を上げた彼は、ヨンジェを見ると太陽のように明るく笑った。
ジフン
ジフン
ヨンジェヒョン!

 この一座で下働きをしている、2つ下の少年だ。

 初めて会った時からジフンはヨンジェに懐いていた。

 もうずっと一緒にいるのに、彼は今でもヨンジェを見るたびに幸せそうな顔をする。

 今回だってそうだ。

 あんまり嬉しそうにガラスの反対側から見てくるものだから、ヨンジェは仕方なさそうに笑った。
ジフン
ジフン
ヒョン、起きてたんですね!久しぶりに話せますね!
ヨンジェ
ヨンジェ
たったの2日じゃん…もう

 まるで宝物を見つけた子供のようにキラキラと輝く目。

 それが自分を真っ直ぐに見つめていると思うと、なんだかくすぐったい気持ちになる。

 ヨンジェは壁を伝って水面へ顔を出して腕を使って壁の向こうへ身を乗り出した。

 地面まではかなりの高さがあるが、心配はいらない。

 ジフンが必ず受け止めるからだ。

 腕を伸ばして落ちてくるヨンジェをジフンは慣れた様子でキャッチした。

 そして自分の薄い上着を床に敷き、その上に座り込んで足の間にヨンジェを座らせ、ヨンジェを抱きしめる。

 ジフンは頬をわずかに染めながら、至近距離にあるヨンジェの美貌を見つめた。
ジフン
ジフン
ヒョン、ヒョン、今日も凄かったです。いっぱい水面からジャンプして、魚を操って、歌も歌って、それから、それから…

 ヨンジェはそれを子供を見守るような優しい顔で見ていた。
ヨンジェ
ヨンジェ
そんなに褒めてくれてありがとう。でもこんなとこにいて良いの?ジフナが今月担当するのってウロボロスでしょ?

 無駄にデカい大蛇の双子の巣がある方を目線で示すと、ジフンはにこにこしながら「大丈夫です」と言った。
ジフン
ジフン
後でやります。蛇たちの脱皮もこの前終えたばかりだからすぐ終わりますし。それよりヒョン、僕あなたと話したくて…ずっと話せてなかったから…

 うんと、それで、と言葉を詰まらせながら言葉を紡ごうとする様子はあまりに愛おしい。

 ジフンが一生懸命に話そうとする姿をヨンジェは気に入っていた。
ジフン
ジフン
ヒョンがパフォーマンスしてる時にハンジニと買い出しに行ってきました。綱渡り用ロープが切れちゃったでしょ?だから買ってこいって言われて…それから河童の餌も捕まえてきました。川が澄んでて綺麗で、まるでヒョンみたいで、そう思ったらヒョンに会いたくなって、それで…
 ヨンジェは静かにジフンの話を聞いていた。

 ジフンは外に出れないヨンジェの為に、外の世界で見たものを教えてくれる。

 様々な話を用意してはヨンジェに聞かせる。

 ジフンは少しでも自分が見たものをヨンジェと共有したがるのだ。

 そして最後は決まって「いつかヒョンと2人で行きたいです」と言うのだ。

 それに対してヨンジェが「俺もそう思う」と言えば、ジフンは嬉しそうに笑って口元をムグムグさせる。

 何かを言おうとして我慢するみたいに。

 その代わりとでも言うように、ジフンはヨンジェのことを褒めちぎった。
 
 とろけるような表情でヨンジェを見つめて、恥ずかしくなるような甘い言葉を惜しげもなくヨンジェだけの為に使う。
 
 目一杯の「大好き」を別の言葉に変えて伝えてくれる。

 じんわりと心が温かくなるのを感じながら、ヨンジェはジフンの頬を撫でた。
ヨンジェ
ヨンジェ
いっぱい話してくれてありがとう
ジフン
ジフン
…楽しかったですか?
ヨンジェ
ヨンジェ
すっごく楽しかった。でももう掃除に戻らなきゃ、座長になんて言われるか…

 ジフンはさっきまでの笑顔は何処へやら、ちっとも話しくなさそうな顔になってしまった。

 ヨンジェから目を逸らしながらも、ヨンジェを抱きしめる腕はさっきよりも力強くなった。
ジフン
ジフン
もう少し一緒にいてもいいでしょ?

 わずかに眉根を寄せて懇願するようにそう言うものだから、ヨンジェは思わずジフンの両頬を撫でた。
ヨンジェ
ヨンジェ
そんな顔しないで。いつでも一緒にいるじゃない
ジフン
ジフン
違います。そうじゃない。そうじゃなくて…

 ジフンは祈るようにヨンジェの手に擦り寄った。

 そして切実な声で言葉を紡ぐ。
ジフン
ジフン
それじゃ足りないです。もっと一緒にいたい

 辛そうな様子が可哀想で、ヨンジェの心もチクリと痛んだ。
ジフン
ジフン
ねぇヒョン、いつかここを出たら…もしそのチャンスがあったら、その時は…僕だけの傍に…

 いつ叶うかも、生きてる内に叶うかもわからない夢の話だった。
ヨンジェ
ヨンジェ
だめだよジフナ

 ジフンの口を親指で押さえた。 
 
 ゆるりと首を振って、ジフンの言葉を遮る。

 ジフンは数回まばたきして俯いてしまった。
ジフン
ジフン
ごめんなさい…

 こんなに自分を想ってくれる彼を受け入れられないという事実が辛かった。

 本当は気の済むまで彼の話を聞かせてほしい。

 そんな悲しい顔をして欲しくはない。

 深い愛情を抱いているのはジフンだけではないのだ。
ジフン
ジフン
お休みの邪魔してすみませんでした

 ヨンジェを水槽に戻すと、ジフンはいつも通り優しく笑ってそう言った。

 ヨンジェはまた首を振った。

 謝ることなんかない。

 ずっと孤独だったヨンジェに楽しい時間と人の温かさを教えてくれたのはジフンなのだ。
ヨンジェ
ヨンジェ
来てくれてありがとう

 ジフンは目を見開いた。
ヨンジェ
ヨンジェ
ジフナといる時が一番楽しい。ジフナがいるから、俺はここでの暮らしも耐えられるんだよ

 俯いてしまったジフンの頭にキスをする。

 頬を包んでいた手を捕まれて口元を押し当てられた。
ジフン
ジフン
また話しましょう
ヨンジェ
ヨンジェ
うん

 ヨンジェの返事を聞くと、ジフンは安心したように小さく頷いた。

 いつも通り明るく笑って、「今日一日お疲れ様でした」と言って頭を下げると、モップを持って双子の大蛇の巣へ向かって行った。
ヨンジェ
ヨンジェ
……

 ジフンの居なくなった部屋には、ちゃぷんと間抜けな音だけが残った。

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