第3話

【森鴎外】思い出話
258
2023/10/26 21:51 更新
そう…何からお話しましょうか。



出会い?



そうですねぇ。
あの日は今日のような木漏れ日が差し込むお昼時で、私がかのお方とはじめてお話しした日でした。
確か、はじめに先生はこう仰いまして______




「記憶喪失、ねぇ…」


私が訪れた森の奥の小さな病院で、剃って短くなった顎髭を撫でながら、そのお医者様は片方の眉を上げて云いました。
皺の寄ったシーツが雑に被せられた寝具に座った私は、正面の小椅子に座った男性と向かい合っていました。
丁度今はお昼時のようで、向かって左の窓から、青々とした風と病院の外を囲んでいた木々から深い緑色の影が入り込み、床の板目を縫うように踊っています。
お医者様は、顎に添えた右手にグッと体重をかけて、首を傾げました。

「君…えー、っと…」

「あなたの下の名前、です…多分」

「多分かぁ…」

森鴎外。今私を診て下さっているお医者様の名です。
だらんとしたシャツに黒いタイを締め、白衣を見に纏った彼の姿は絵に描いたような"医者"でした。
彼のから見て右側には、金具のついた引き出しが半端に口を開けた机があり、その上には重石の乗った何枚もの紙が重ねられ、微風に抗うよう上下にぱさぱさと音を立てています。

「じゃああなたの下の名前君。今から君に幾つかの質問をしよう。答えてくれるね?」

「質問…」

「ああ、質問。会話で脳を刺激して記憶を戻す"治療"で……まあ日中暇してる中年に付き合うだけだよ。肩の力は抜いておくれ」

「はあ…わかりました」

私の返事を聞いて、森医師は満足そうに頷くと、右隣に置かれていた診療録カルテを手に取りました。

「あ、そこの鉛筆取ってくれるかい?」

森医師の一声で辺りを見渡すと、私が腰掛けた寝具の真横に芯が潰れた鉛筆が転がっていました。長さは私の小指___正直小指でもこの長さだとかなり不安___ほどしかなく、再度辺りを見渡しましたがこれといって替わりになるような筆記具が無かったので、渋々森医師に小指弱の鉛筆を渡しました。
ありがとう、と一言云って、森医師はその鉛筆で器用に紙上に黒鉛を滑らせました。
本当にその心許ないでは済まないほどの鉛筆で書くのですね。
関心のような呆れたような考えが胸をくすぶる中、森医師との"治療"が始まりました。



「成程…苗字、出自、国籍、年齢、ことごとく抜け落ちてるね、記憶」

「はい…どうしたものか…」

もはや乱投とも云える質問の数に若干疲れが見え隠れたものだから、私は伸ばしていた背中の筋を一旦緩め、自身の記憶を辿ったり探ったりしていました。
森医師も私の微弱な疲労を感じ取ったようで、少しづつでいいから、とこちらに笑いかけ、一度深く腰を座らせました。

「そういえばの話だが、この病院にはどういった経緯で訪れたんだい?」

私は咄嗟に、ああ、と僅かに声を漏らしました。
というものの、その辺の記憶は真新しく残っており、やっと真っ当な返答が返せる事に、私の胸には少しばかり喜びに近い感情が宿ったのです。

「先程も申した通りなのですが、私、目が覚めた時にはすでに森の中で…行く当てもなかったものだから、細い小川に沿って歩いていたところを太宰…おさ、お…治? という方に話しかけて頂きまして、その時の状態をそのまま伝えたところ腕利きの医者がいる病院があると教えて下さり、それでこの病院に」

途端森医師は拍子抜けしたような顔を見せました。

「うーん…その太宰…君はどうして森の中に…」

「私は知り得ませんが…川上から流れていらしたので、桃太郎か何かかな、とか思っていたら声をかけられまして…」

森医師は暫く眉間を抑えて空を仰いだのち、渋ったように尋ねました。

「…太宰君は、なんと?」

「貴女の様な峯麗しい女性はお目にかかったことがない、是非このワタクシめと共に黄泉の御国でお茶でも…と」

「はぁ〜〜〜〜〜………」

前に屈むにとどまらず、ましてや後ろに仰け反って肺の空気を余す事なく外へと放った森医師は、軽く息を吸うともう一度小さく息を吐きました。
まるでポンプですね。

「あの、お知り合いの方でしょうか?」

「ああ…まあ、うん」



それから、また幾度かの質疑応答をこなし、紅茶を少し飲んだ後、森医師はある程度納得したように診療録カルテと小指の鉛筆を机の上に置きました。

「いや、思ったよりも長くなってしまったね。付き合ってくれてありがとう。それでなのだけど、これは私からの提案なのだがね、君に問題が無ければ暫く此処に留まらないかい? 勿論入院という形で」

「入院、ですか」

空になったティーカップをソーサーに乗せて、森医師の言葉を鸚鵡返ししました。
出自もわからないのに入院なんてできるのでしょうか。いえ、森医師が仰っているのですから実現はするのでしょう。
それに、記憶の無い私にとっては、帰る家も明日の朝食も夢のまた夢なので、この病院に残れば衣食に問題はないでしょう。
大きな問題も特になかったので、私はその提案を受け入れ、晴れてこの病院の一室の住人となりました。



私がいただいた四畳程のお部屋は病院の突き当たりに位置しており、毎朝寝具の上で体を起こすと、窓越しに覗く木々の海から真っ白な太陽が顔を出し、毎夜小さなティーポットを手に取ると、香る茶葉の温もりに白銀の星々を映し見ました。
薄いカーテンが波打って、静かに変化する空の色を風が私に知らせるたび、その些細な風景を目に映すたびに、私は不思議な気持ちに胸を蝕まれていきました。
私には何かが足りない気がしてなりません。
きっとそれは記憶とはまた別の探し物でしょう。

そんな心安らぐ生活をおくっていた拍子に、森医師が反社組織所属の闇医者だと知って私が思い切り腰を抜かした思い出話なんかは___まあ、次の機会にでも致しましょう。

私は、今日もこのお部屋から、遠く微かな記憶をぼんやりと眺めております。




















リクエスト______𝐅𝐫𝐨𝐦 様

プリ小説オーディオドラマ