あなた side
何故か、個性が使えなくなった。
それを理解した瞬間、僕の中で張り詰めていた何かが、
音を立てて崩れ落ちた。
感情操作によって辛うじて制御していたはずの感情が、
堰を切ったように溢れ出す。
怒り。
悲しみ。
苦しみ。
後悔。
喪失。
憎悪。
抑え込んできたすべてが一斉に牙を剥き、
腹の奥底でどす黒い塊となって蠢いていた。
内臓を引き裂くような感覚。
肺がうまく空気を吸えない。
喉の奥が焼けつくように熱い。
ああ、苦しい。
息が、できない。
─────────憎い。
誰が?
何が?
わからない。
ただ、ぶつけなければ壊れてしまう。
自分が、自分でなくなる。
視線を落とす。
そこには、倒れ伏した男がいた。
オーバーホールの配下。
数秒前まで確かに生きて、呼吸をして、
命を持っていた存在。
今は動かない。
血がアスファルトに広がり、
港の冷たい風に煽られて鉄の匂いを濃くする。
僕の手を見る。
ナイフが握られていた。
指の隙間まで、真っ赤に染まっている。
刃先から滴り落ちる血が、
ポタリ、ポタリと地面に落ちる音だけが、
異様に大きく聞こえた。
誰に言うでもなく、喉の奥から零れ落ちた声は、
ひどく掠れていた。
答えなど最初からわかっている。
それでも認めたくなくて、現実から目を逸らしたかった。
だが、手の震えも、返り血の温度も、
確かに“今”の僕を示していた。
次の瞬間、僕の視線は無意識に一つの存在を捉える。
オーバーホール。
その男は、こちらを見ていた。
感情の読めない冷たい眼差しで、
まるで実験結果を観察する研究者のように。
彼が、指を僅かに動かした。
それは合図だった。
倉庫の隙間、積まれたコンテナの陰から、
次々と人影が現れる。
数人、いや十数人。
オーバーホールの配下たちが、
彼を守るように前へ出て、壁を作る。
銃を構える者、刃物を抜く者、無言で殺意を放つ者。
だが─────────
声は低く、地を這うようだった。
自分の声なのに、ひどく遠く感じる。
僕は一歩、また一歩と近づく。
足元で血を踏み、靴底が嫌な音を立てる。
止まらない。
止められない。
頭の中は白く、視界の端が滲んでいく。
守る?
盾?
そんなもの、意味がない。
配下の一人が前に出た。
言葉の途中だった。
刹那、僕の身体は勝手に動いていた。
ナイフが振るわれ、肉を裂く感触が掌に伝わる。
温かい。
生々しい。
次の瞬間、その男は崩れ落ちる。
叫び声すら、最後まで届かなかった。
返り血が、顔に、頬に、瞼に降りかかる。
視界が赤く染まる。
自分が何をしているのか、もうわからない。
わかりたくもない。
オーバーホールが、一瞬だけ目を見開いた。
その表情を見た瞬間、胸の奥で何かが歪に歪む。
恐怖?
動揺?
ざまあみろ、と言いたかったのかもしれない。
ただ、その感情すら形を持たず、
黒い衝動の渦に飲み込まれていく。
殺せ。
壊せ。
奪われる前に、奪え。
次の一歩を踏み出そうとした、その時だった。
影が、動いた。
背後から、冷たい空気が走る。
次の瞬間、視界が揺れ、鈍い衝撃が首筋に叩き込まれた。
声にならない音が喉から漏れる。
膝が折れ、力が抜ける。
地面が迫り、世界が反転する。
その直前、ぼやけた視界の端に、見慣れた姿が映った。
蛇ノ目だった。
影移動で背後に現れ、迷いなく、躊躇なく、
僕の意識を断つための一撃を放ったのだ。
そこには判断と覚悟があった。
低く、短い声が聞こえた気がした。
その言葉を最後に、音が遠のく。
港の潮騒も、怒号も、血の匂いも、
すべてが闇に溶けていく。
思考がほどけ、身体の輪郭が曖昧になっていく。
ああ──────
このまま、何も考えなくて済めばいいのに。
そう願った瞬間、僕の意識は完全に途切れた。
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早乙女 side
あなたが倒れた。
蛇ノ目が、彼女を気絶させたのだ。
それは攻撃ではなく、明確な“救い”だった。
彼がそう判断したことを、誰も責めることはできない。
これ以上、彼女に殺させてはいけなかった。
彼女自身を、壊させてはいけなかった。
たとえそれが彼女にとって救いにならなかったとしても、
今は止めるしかなかった。
理由は分からない。
だが明らかだったのは、
彼女の個性が使えなくなっていたこと。
そしてそれによって、感情操作という最後の楔が外れ、
抑え込まれていた感情が一気に噴き出したという事実だ。
怒り、悲しみ、恐怖、憎悪、喪失感。
衝動に駆られ、理性を失い、
ただ“壊す”という選択肢しか残されていなかったのだろう。
私たちは、動けなかった。
身体が縫い止められたように、
誰一人として彼女に近づくことも、
声をかけることもできなかった。
凄まじい殺気だった。
感情共有がないにも関わらず、
それだけは痛いほど伝わってきた。
空気が重く、呼吸をするたびに肺の奥が焼けるようだった。
彼女は泣いていた。
黒狐の面に隠れて表情は見えない。
それでも、頬を伝って落ちる雫が、
月明かりと港の照明に反射して、確かに涙だとわかった。
あの仮面の下で、どれほどの苦しみを抱えてきたのだろう。
どれほどの痛みを、
誰にも見せずに飲み込んできたのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥がきしむ音を立てた。
私はすぐにあなたのもとへ駆け寄り、彼女を抱き抱えた。
力なく、ぐったりとした身体は驚くほど軽い。
あれほどの殺気を放っていた存在とは思えないほど、
脆く、冷たく感じた。
呼吸はある。
脈もある。
それを確認して、ようやく息を吐いた。
周囲に視線を向ける。
オーバーホールは、じっとこちらを見ていた。
動揺も、恐怖も、後悔もない。
ただ、観察するような目。
まるで盤上の駒が倒れたのを確認するかのような、
無機質な視線。
──────こいつ。
信者が殺された。
カナメの足が消された。
血の匂いが、まだこの場に残っている。
今すぐにでも、燃やしてやりたかった。
骨の一本も残らないほど、跡形もなく。
拳を握りしめる。
爪が掌に食い込み、痛みが走る。
それでも足りない。
怒りが、憎しみが、胸の奥で渦を巻く。
その沈黙を破ったのは、オーバーホールだった。
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
次の瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
─────何を、言っている?
穏便?
信者を殺しておいて?
家族の足を奪っておいて?
私は歯を食いしばり、声を出さないよう必死だった。
ここで感情を爆発させれば、彼女と同じ轍を踏む。
わかっている。わかっているのに、
こいつの存在そのものが、私の理性を削っていく。
オーバーホールは続ける。
淡々とした口調だった。
まるで取引条件を読み上げるように。
───だから、カナメの足のことはチャラにしろ、と?
だから、信者の命は帳消しだと?
舐めてるのかしら。
そっちの使い捨ての駒と、うちの“家族”を同列に扱うな。
喉元まで怒号がせり上がる。
それでも私は、それを噛み殺した。
ここで感情に任せれば、失うものが多すぎる。
オーバーホールは、懐から名刺を取り出すと、
指先で弾くようにこちらへ投げた。
名刺は地面に落ち、乾いた音を立てた。
そう言い残し、彼は背を向けた。
死穢八斎會の人間たちが、それに続く。
誰も振り返らない。
血の海も、倒れた仲間も、
まるで最初から存在しなかったかのように。
私たちは、その背中を見送るしかなかった。
潮風が吹き抜ける。
血の匂いと海の匂いが混ざり合い、胸を刺す。
腕の中で眠るあなたは、何も知らない顔をしている。
だが、その静かな寝顔が、かえって胸を締めつけた。
彼女は、すべてを背負いすぎている。
リーダーとして、狐様として、願いを叶える存在として。
誰よりも強く、
誰よりも優しくあろうとした結果が、これだ。
港には、もうオーバーホールの姿はなかった。
だが、この夜に刻まれた傷は、決して消えない。











編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。