第4話

たえぬ
7
2026/02/15 05:35 更新
 数日ほど経って、俺はようやく自分の家へと帰った。キリンさんとタブーさんの家を二日ごとに行き来していたのだ。キリンさんの部屋は、相も変わらず汚かったが、何せ今の俺の精神状態を顧みたのか、丁寧に一カ所にアダルトグッズをまとめあげ、なんとなく清潔感のあるふうな形にはしていた。かなり頑張ったようで、ちゃぶ台などに積み上げられていたアダルト雑誌も、一冊のみになっている。何度も繰り返し読み込んで、流石に飽きてきているのか、ページをめくる音がいつもよりもかなり早かった。

 タブーさんの家はかなり綺麗だった。普段から清潔に保っているからか、そこまで掃除を特に頑張った、などがなさそうであったし、日頃からやっているからか清掃活動にも意欲的だった。普段からコレクションとして置いてある拷問器具は、俺がふとした拍子に自殺目的で使われないようにと、別の倉庫にしまったらしく、アルミか何かで作られた作業用ラックはすっからかんだった。

 朝食等にも差があり、朝に起きる時間帯にもかなり違いがあったが、少なくとも、どちらの部屋でも、自分の部屋よりも比較的落ち着いて過ごすことができていた気がする。

 キリンさんは、自分の家に帰る、という時に、俺の頭に手を乗せ、

「寂しくなったり、緊急事態が起きたり、何もなくて暇だったり…どんなことがあっても、連絡したくなったらいつでもしていいからな。必ず返事はするし、来てほしければ言ってくれりゃすぐ飛んでいくからよ」

 そう言って、にこやかに送り出してくれた。

 そうして一日が経つ。が、そこまで緊急ということもなく平穏に日々が送れている。いつも作る肉じゃがも、カレーも、味覚は美味しいと告げていたし、吐き気とか、身体的異常も、見当たることはなかった。

 そうして油断したからか、その日は夢で、ずっと繋いでくれていた手を簡単に離される、と言うものを見た。どれほどのショックだったかは知らない。ただ、勢いで跳ね起きた事だけは確かであった。は、は、と呼吸を繰り返し、あふれ出そうになる涙を止めるために目を瞑る。しかし、またその光景を見てしまいそうで、結局せりあがる胃液を前にトイレへと駆けこんだ。

 吐き出したのは一度だけであった。ふう、と溜息をついて、口内を水道水でゆすぐ。今日は時間に余裕もあるうえに以前よりは遥かにましであったからか、大学に行けそうな雰囲気があった。キリンさんたちに今日は行けそうだ、とメールを送り、返事も待たずに準備を終えて外へ出る。外は眩しくチカチカと視界が点滅したが、最近はあまり外へ出ることもなかったからだと一人納得した。外を空気は冷たく、ふと身震いする。大学までの道のりが、いつもと同じ道であるはずなのにかなり遠く感じた。

 辿り着いて、講義を受けようと教室のドアを開けた。そこには、以前見たことのある、楽しそうに漫談する生徒たちが大勢いた。今までの自分と比較して、気分が落ち込む。その輪に入ることのできない自分自身が、腫物のようで虚しくなった。講義を受けている間、その事が頭にちらつき、まともに話も聞けなかった。ぼー、と先生の顔と黒板の間を見つめる。その間に講義はすでに終わっていたらしく、生徒たちは仲睦まじげに教室を出ていった。

「…おい」

 聞き覚えのある声が聞こえて、意識がそちらへと向く。見やれば、そこには眼鏡をかけたサブローくんがいた。深刻そうに眉をしかめているのを見て、ドクンと心臓が大きく脈打った。

「な、ん…なんす、か?」

 ドクドクと大きく、早く鳴り響く心臓を抑えるようにパーカーの胸元を握る。あまり力がないのか、関節は上手いこと働いてくれず、握ると言うより、ふんわりと触れるだけだった。

 サブローくんは、俺の顔を見て、口を開いて声を出し、話しかけてくれた。しかし、その言葉は俺の耳には届かず、甲高い耳鳴りによって遮られていた。きぃー……ん、と響く横で、サブローくんは心配そうにこちらを見やってくれていた。その言葉も届くことはなく、あまりに申し訳なくなって、つい何も言わずに教室を出た。教室にある階段と、長い長い廊下のせいか、部室に行くまでの道のりがとても険しいように感じる。以前はこんなことなかったのに、と感じ、じんわりと目元が熱くなった。

 ようやく部室にたどり着いた時には、すでにタブーさんもキリンさんも集まっていたようで、俺を見て、おお、と煌びやかな表情を見せた。

「ハック!! 来てくれたんだな!」

「ちょっとはましになったって言ってたけどよ、顔色悪ぃぞ? 大丈夫か?」

 二人の声がクリアに聞こえる。部室は紫を基調とした壁紙をしているため、かなりほの暗く感じる。ロウソクの炎が、ドアを開けた時の風で、ゆらゆらと揺れた。二人の顔を見て、ほ、と息が漏れる。途端に、しずまりかけていた涙があふれ、ひゅ、と息が詰まった。せりあがる胃液に口もとを押さえる。タブーさんとキリンさんが、二人して俺に近づいて肩を抱いた。二人はあまり声を出さずに、黙ってトイレへと誘導してくれた。口元で溜まっていた胃液を全部吐き出す。そう言えば、朝食はゼリーひとつだったことを思い出し、固形物が吐瀉物に紛れていないことに一人で納得した。朝とは違い、何度も何度も繰り返し迫る吐き気に疑問が漏れた。

「あさは、こんなこと…なかったのに…。なんで…?」

 タブーさんとキリンさんが、「お前マジでか…」と呆れたような声で返す。どうやら、二人は俺がこうなることに気づいていたらしく、その為に早く部室に来て俺を待っていたらしい。一人で倒れ込むよりも、よっぽどマシだ、と。二人はそう言っていた。

 胃液の酸っぱい味にまた吐き気が溢れて、と言うものを幾度も繰り返し、ようやく落ち着いた時に、ふと、思いついた。

「あぁ! リュック!!」

 突然大声を出したからか、タブーさんとキリンさんが驚いて背をさすっていた手を止めた。講義していた時の教室に、緑色のリュックサックを、ノートや参考書、パソコンとともに置いてきてしまっていたのだ。道理で、朝大学に通ってきていた時よりもはるかに身軽だったのだ。

 なぜ荷物を忘れたのだろう、と自分を責める。下を向いていたからか、タブーさんとキリンさんは、俺の事をゆっくり立たせてから、部室のいつも使っている空間に戻した。どうやらタブーさんが表の部屋にソファを持って来ていたらしく、そこに座らせてもらう。一人ではまた吐き気が出るだろうと、キリンさんが俺の隣で、俺を寄りかからせるように座った。しばしの温もりに包まれたまま、俺はうつらうつらと舟を漕いだ。タブーさんは、俺の荷物を取りに教室へ歩いて行ったらしい。

「…なんもしねえのも、いいもんだよなあ」

 キリンさんはそう言いながら、ゆっくり、俺の頭を撫でた。

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