第94話

Golden Hour ◇ story 90.
2,922
2026/07/24 03:16 更新


ココちゃんの飼い主のお姉さんと別れた後、
私たちは再び受付に戻った。


午後の受付は午前ほどの混雑はなくて、
時々来場する人にネームプレートを渡したり
校内マップを覗き込むお客さんに道案内をしたり。

午前中の喧騒が嘘みたいに、穏やかな仕事だった。


だけど、そんな静かな時間の中で、
私とあなたの推しの間にはずっと
妙にぎこちない空気が流れていた。



たぶん、お姉さんの「推しカップル」の一言が
原因……だと思う。


私が「ただのクラスメイトです」と否定したあのとき、
口元をきゅっと結んでいたあなたの推しの横顔が
頭から離れない。



……そんなにいやだったのかな。




『あなたの推しには好きな人がいる』


だから、私と「カップル」だなんて言われて
気まずかったに決まってる。


──そうわかっているのに、あれからずっと
あなたの推しと目が合わないのが、くるしい。




だけどいまさら「そんなわけないのにね」なんて
否定するのも違う気がして。


それに、冗談っぽくだとしてもそんなこと
口にできそうになかった。


だってほんとうは、一瞬、嬉しかったんだもん──。




午後の私はずっと
あなたの推しの表情ばかり気にしていた。


仕事の話には普通に答えてくれるし、
時々目が合えば、薄く微笑んでもくれる。

ただ、私が知っているいつものあなたの推しとは
何かが少しだけ違う気がして……。


でも、たぶんそれは
私の方の問題なんだろうな、と思う。


私があなたの推しの表情を必要以上に読もうとして
勝手にぎこちなくなっているだけ。


そう思おうとしても
胸の奥にひっかかった小さなトゲは
文化祭1日目が終わっても、刺さったままだった。



………



 
午後の受付が終わり、
実行委員のミーティングは三十分ほどで終わった。


私たちはいつも通り、駅まで並んで歩いた。


頭の中では話したいことがたくさんあるのに、
口から出てきたのは「明日も早いね」とか
「お疲れさま」とか、
そんな当たり障りのない言葉ばかりで。


それはあなたの推しも同じだったみたいで、
私に合わせるように「うん」とか「だね」とか
短い返事を返すだけ。



いつもより少し遅い、夕方と夜の境目みたいな空の下、
あなたの推しと二人電車に揺られる。

それでも会話は最小限。


ツグミ駅で別れるとき、
あなたの推しは「明日の朝も同じ時間で」と
業務連絡みたいな口調でそう言った。

あなた
うん……また明日ね
あなたの推し
また明日。……気をつけて


いつも通りのあなたの推しにも見えるけど
やっぱり何かが違う気がして。


この数日だけで、あなたの推しとの距離が
近づいたり離れたり。


今朝の冗談みたいな
「嫌われたかもって不安だった」って言葉の意味も。

久しぶりに見たあなたの推しの楽しそうな笑顔も、
いつのまにか気まずそうに視線を逸らした
あの表情にかき消されて思い出せない。



………



家に帰って、お風呂に入って、
明日の準備を済ませてスマホを開く。

そして「2」と表示されたLINEの通知をタップした。

ユウ
今日はお疲れ様〜!
あなたと一緒に楽しめなくて残念だったけど、
あなたの方は楽しめた?
ユウ
明日はクラスの方にも顔出すよね?
楽しみにしてる!


という、ユウからのメッセージだった。



……わかってたけどね。


私は小さく息をついて、返信を打ち込む。

ユウもお疲れ! カフェ大盛況だったね!
明日は私もクラスのチラシ配りの方にいるよ〜
明日も頑張ろうね!


送信ボタンを押して、
ユウとのトーク画面からバックで戻る。


そして、ぼんやりとした青いネモフィラのアイコンから
目を逸らすみたいに、スマホの画面を閉じた。




明日でついに、文化祭が終わってしまう。


私とあなたの推しを繋いでいた
「文化祭実行委員」という口実も終わってしまう。



そしたらまた、席が前後なだけに戻ってしまうのかな。



私は布団の隙間に体を滑り込ませて
手を伸ばして部屋の電気を消した。

急な暗闇に、目が慣れない。


何も見えないまま眼を閉じて、
鼻先まで布団の端を引っ張り上げた。


一日中立ちっぱなしだったせいか、
いつもより体がベッドに沈んでいるみたいに感じる。


重い体を捻って、右の頬を枕に押し付けた。


体が再びベッドに沈んでいくのに合わせて、
瞼もゆっくり下りてくる。




──明日の最後に、
笑ったあなたの推しを見られますように。




子どもみたいに小さなお願いを
胸の中で何度も繰り返しているうちに、
いつのまにか私は、深い眠りに落ちていた。

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