そう言って、私は扉を開けた。
お母さんがリビングの扉から顔を覗かせた。
お母さんの娘である『凪音柚葉』は、断る時でさえも、言葉を選ばなければいけないのだ。
にっこりと微笑って答える。
そう笑って言うとお母さんはパタンと扉を閉めた。
小さく溜息を零した。
面倒くさい、というのが本音だった。
おやつなんか、いらないのに。
私の家は、高層マンションの上層部だ。
私の部屋まで行くのに階段を登らなくていいのは嬉しいのだが、今みたいに学校から帰ってくる時はエレベーターを使えるけれど、災害時とかは階段を使わなきゃいけない。ちなみにこの私の家は30階だ。
何それ地獄?という心の声は心の中に閉まっておくことにしよう。
自分の部屋に入って、リュックを下ろし、ソファに座り、ソファの付属の机の上に置いておいた、自分のスマホを手に取る。
呟いて、近くのクッションを抱え込む。
イルカのクッションで、私のお気に入りだ。
やっぱり、『くろ』こと黒猫から、1通のメッセージが届いていた。
私とくろは、ある小説投稿サイトで出会った。
お互いの小説を見てアドバイスをし合ったことで仲良くなった、私の友達だ。
今では、毎日コミニュケーションアプリで会話している、遠く離れた私の理解者だ。
男子だけど、アイコンは、紫がかった黒く長い髪に緑色の瞳の猫耳つきでセーラー服を着た美少女だ。
自分で書いたらしい。その画力を私に頂戴…。
もちろん、黒猫が本名ではない。
ペンネームというやつだ。
ちなみに私は『凪』にしている。
ネーミングセンスの無さが溢れている。
そうメッセージを送信するとすぐにスマホが鳴る。
くす、と微笑む。
やっぱり、くろと話すのは楽しい。
学校が、つまらない。
雪川くんと話さなくなって、もう何ヶ月も過ぎた。
もう、季節は春に変わっている。
雪川くんと出会って、何度目の春だろうか。
数えようとして、溜息をついた。
何が、かは分からないけれど。
きっと、私の何かが雪川くんを傷つけてしまった。
それだけは、変わらない。
もう1度溜息をつく。深く深く。
胸の中の全てを吐き出すみたいに。
『私』は、誰なんだろう。
クラスの中での、人気者の『凪音柚葉』
家族の中での、いい娘の『凪音柚葉』
くろの前での、明るい親友としての『凪音柚葉』
雪川くんの前での、うつくしくない世界に負けない強さを持つ人の『凪音柚葉』
私は、一体、誰なんだろう。
何が、本物なんだろう。
私ー凪音柚葉は、小さい頃から、周りの、理想の『凪音柚葉』に合わせて生きてきた。
そうすれば、居場所がなくなることはないから。
大嘘つき。
その言葉が、私に1番似合うと思う。
自分の思ったことを封じ込めて、自分の言葉を隠して、嘘をつき続けた。
いつしか、私は誰だか分からなくなった。
ー嘘つきの苦悩を、知っているだろうか。
まあ、知る訳がないだろう。
私曰く、嘘つきは『自分』を知らない。
深く沈んだ思考に被せるように、スマホが、ぴろん!と元気に鳴った。
こっちの気も知らずにスマホは呑気だった。
うぐ。
…変な音が喉から出てきた。
ぐは。
…またまた喉から変な音が出てしまった。
どこいった、私の女子力。
帰ってこい、私の女子力…。
沈黙を肯定と捉えたのか、くろが、ニヤニヤした、何かのキャラのスタンプもついでに送ってくる。
1度だけ抵抗を試みた。
少しの間を空けて、またスマホが鳴った。
虚をつかれた。
くろには珍しい、強い言葉だった。
いつも、悪く言えば飄々としているくろとは少し様子が違った。
いつも明るく、私の悩みを軽くしてくれる、いつものくろとは。
ああ。
気づいた。
私は、まだ、くろのことを全然知らないんだ。
好きな食べ物も、好きなアニメも、趣味も。
小説を書き始めたきっかけも。
そして、何で、絶望の底にいた私に手を差し伸べてくれたのかも。
雪川くんも、そうだ。
たとえ、私が、雪川くんを傷つけてしまうとしても、話さなければ、互いを知ろうとしなければ。
ずっとずっと、私達は交われないままなのだ。
あの音楽室のベランダで出会ってから、私達の時は止まったままだったのだ。
私達は、まだー
ぴろん!
元気にスマホが鳴った。
見て、目を見開いた。
奈緒からだった。
内容を見て、また急いでくろにメッセージを送る。
ありがとう。大嘘つきの私を、想ってくれて。
私の背中を押すように、くろが言った。
あーあ、凪が盗られちゃったみたい、と少し悔しそうに呟いたのは、黒猫という名前の仮面を被った、ある1人の少年しか知らないことだ。
くろに言う代わりに、そう呟いた。
部屋を飛び出して、私はリビングにいるお母さんにも聞こえるように大きな声で言う。
リビングからお母さんが出てきてそう言う。
靴を履きながら、私は答える。
微笑みと共に紡がれた言葉を背に、私は玄関の扉を開けて駆け出した。
ポケットに入った、スマホの微かな重みを感じながらエレベーターまで走る。
丁度良くエレベーターが止まっていて良かった。
迷わず1階のボタンを押す。
奈緒から来たメッセージは、こんなものだった。
奈緒は、私が小さい頃から通っていたピアノ教室に同じ時期に入った。
だからもちろん、まあまあ仲も良くて。
けど、私は、奈緒がいじめられていることを知りながら何もしないでいた。
それなのに。
こんな私を、信じてくれた。
私でも、雪川くんを助けられると。
だから、応えたい。
そう思うのは、きっと間違いじゃない。
さあ、行こう。私達のはじまりの場所へ。
私達の、あの小さな世界の時を進めよう。
君と交わる世界を思い描きながら、私は走った。















編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!