第42話

兄ちゃんの友達
3
2026/04/26 15:07 更新
スバルサイド

着替えまで終わって、時計を見る。

八時半、ちょい過ぎ。

九時には迎えに行かなあかん。

あと三十分弱。

この三十分が、一番長い。

「亮」

「なに」

「ちょっと待つで」

「いや」

即答。

「知ってる」

「いや」

「九時なったら行く」

「いく?」

「行く」

「にちゃん?」

「にちゃんも行く」

「……おる?」

「おる」

袖を掴む手が離れへん。

体はもううろうろし始めてる。

ソファの前を通って、テーブルの横を回って、また戻る。

落ち着かん。

完全に多動の波に入ってる。

「走らん」

「ちゃう」

「歩く」

「いく」

「歩く」

「いや」

一歩出る前に肩に手を置く。

「歩くで」

「いく!!」

「歩く」

「……あるく」

言葉は返る。

でも足は速い。

「にちゃん」

「なに」

「いこ」

「まだ」

「いく」

「まだ」

「じかん?」

「まだ八時半」

「じかんする?」

「せえへん」

「じかんいこ?」

「行かへん」

「にちゃんあかんした」

「してへん」

今度はリモコンに手を伸ばす。

「触らん」

「ちゃう」

「リモコン触らん」

「これ」

「それはあかん」

ぱしん、と軽く腕に当たる。

「痛い」

「にちゃんあかん」

「それは止める」

「してる」

「してる。今のは止める」

そのまま今度はソファに登ろうとする。

「登らん」

「ちゃう」

「降りる」

一瞬止まるけど、また上がろうとする。

「亮」

少し低く呼ぶ。

「降りるで」

腰を支えて戻す。

「にちゃんあかんした!!」

「それはあかんするやつや」

「してる!!」

「してる。危ないから」

ここは譲らへん。

亮はむっとした顔のまま、今度はこっちに体当たりしてくる。

ドン。

「うわ、また来た」

受け止める。

「どん」

「俺にドンちゃう」

「どん」

「クッションにドン」

クッションマットを引っ張ってくる。

「ここ」

「どん」

亮が体を預ける。

「それ」

「どん」

もう一回。

「ええやん」

「ちゃんと?」

「ちゃんとドンできてる」

少しだけエネルギーを逃がす。

でも、すぐ次に行く。

「にちゃん」

「なに」

「いく?」

「まだ」

「いく」

「まだ」

同じやり取り。

その間に、言葉を置く。

入るかどうかは関係ない。

「亮」

「なに」

「これからな、人迎えに行く」

「……ひと」

「人」

「にちゃん?」

「にちゃんの仕事の人」

「……」

「兄ちゃんの仕事で関わってる人や」

「……ひと」

「そう」

亮は意味までは繋がってへん。

でも、音は拾ってる。

「亮」

「なに」

「亮みたいに、しんどい時ある子やねん」

「……りょう?」

「そう。亮みたいに、しんどいってなることある」

「……」

「でも頑張ってる」

「……」

反応は薄い。

でも続ける。

「一人で住んでてな」

「……ひと」

「そう。一人で住んでる人」

「……にちゃん?」

「兄ちゃんが行って、一緒におる」

「……」

たぶんほとんど入ってない。

でも、何も言わんよりはええ。

「亮」

「なに」

「一緒に迎え行くで」

「……いく」

「行く」

「ちゃんと?」

「ちゃんと」

「にちゃん」

「おる」

「おる?」

「おる」

そこが一番大事や。

話の内容より、そこや。

その時、ポケットの中でスマホが震える。

一瞬だけ目を落とす。

画面に名前が出てる。

こうき。

「あ、来たか」

少しだけ亮から体を離す。

「ちょっと待ってな」

「いや」

「電話や」

「にちゃん」

「すぐ終わる」

「ちゃう」

それでも出る。

スピーカーにはせえへん。

でも離れすぎへん。

「もしもし」

『あ、すばる?』

声が少し小さい。

緊張してる声や。

「おう、どうした」

『あのさ……今日、俺ほんまに行って大丈夫なん?』

やっぱりそこ来るか、と思う。

「大丈夫やで」

『でもさ……迷惑ちゃう?』

「全然ちゃう」

『なんか……急に行くってなってもうて……』

「大丈夫やって言うてるやろ」

少し笑いながら返す。

その横で、亮が腕を引っ張る。

「にちゃん」

「ちょっと待って」

「にちゃん」

袖をぐいっと引く。

「おるって」

そう言いながら、こうきに戻る。

「今な、ちょうど出るとこ」

『あ、ほんま?』

「今から迎え行く」

『え、ほんまに?』

「ほんまに」

『……そっか』

少しだけ声が緩む。

でもまだ不安は残ってる。

『なんかさ、俺、ちゃんとできるかなって思って』

「何をや」

『その……行っても大丈夫かなって』

「大丈夫やって」

少し間を置いて言う。

「別に何かできなあかんとかないで」

『……うん』

「来て、一緒におればええだけや」

『……うん』

「亮もおるし」

『あ、亮くんもおるんや』

「おるで」

その瞬間、横から亮の声。

「にちゃん!!」

腕を叩く。

ぱしん。

「痛いって」

『あ、大丈夫?』

「大丈夫大丈夫」

亮の方を見る。

「おる」

「……おる?」

「おる」

それだけ返す。

またこうきに戻る。

「ほら、にぎやかやろ」

『……なんか、想像つくわ』

少し笑った声。

「やから、気にせんと来い」

『……うん』

「待ってる」

『うん。じゃあ……待ってる』

「今から行く」

『気ぃつけてな』

「そっちもな」

電話を切る。

ポケットに戻す。

その瞬間、また亮が体当たりしてくる。

ドン。

「うわ、電話終わった瞬間これか」

「にちゃん!!」

「なに」

「いく!!」

「行くで」

「ぶう!!」

「車で行く」

「いく!!」

さっきよりテンションが上がってる。

「亮」

「なに」

「人迎え行くで」

「ひと!!」

「さっき言うた人」

「ひと!!」

「そう」

「いく!!」

さっきよりも、言葉が一個増えてる。

理解してるわけじゃない。

でも、音として残ってる。

それでええ。

「あと三つで行く」

「みっつ!!」

「一、靴」

「くつ」

「二、かばん」

「かばん」

「三、玄関」

「げんかん」

「そしたら車」

「ぶう!!」

「そう」

亮の体が前に出る。

「靴履くで」

「にちゃんして」

「片方する」

「りょうやらん」

「足は亮」

「にちゃんあかんした」

「出たな」

「してる」

「してへん」

なんとか靴を履かせる。

かばんも持たせる。

玄関へ。

「走らん」

「いく!!」

「歩く」

「いく!!」

「歩く」

ドアを開ける。

外の空気。

亮の体が一気に前に出る。

「歩く」

「いく!!」

「歩く」

車まで連れていく。

助手席に乗せる。

ベルトをつける。

カチッ。

「カチ」

「カチや」

「いく!!」

「今から行く」

「ぶう!!」

エンジンをかける。

亮はまだ落ち着かへん。

体を揺らしてる。

でも、もう動き出す。

「亮」

「なに」

「人迎え行くで」

「ひと!!」

「そう」

「いく!!」

その一言で、今日が本格的に動き出す。

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