第16話

16話
2,044
2023/04/08 04:00
 旧校舎の廊下に立ち尽くしたまま、手のひらの黒鍵を握りしめる。未冬ちゃんに言われた言葉の意味が理解できず、ようやくわかったのはゆうに十秒は経ってからだった。
丹波未冬
丹波未冬
和花ちゃん?
時岡和花
時岡和花
あ、え、えっと
 大切な人というのは、つまり、その。
時岡和花
時岡和花
信頼している人、ってこと……? 例えば、家族とか……
 必死に絞り出した私の言葉を、未冬ちゃんは笑って否定する。
丹波未冬
丹波未冬
違う違う。そういうのじゃなくって。和花ちゃんの好きな人、ってことだよ
時岡和花
時岡和花
(好きな、人……?)
 今、未冬ちゃんは黒鍵の話をしていたのではないのだろうか。黒鍵をくれたのは暁斗君で、未冬ちゃんの言うことを繋げると私の好きな人が暁斗君ということになってしまう。
 ちがう、そんなんじゃない。暁斗君は――。
丹波未冬
丹波未冬
当たり? わーいいなー
 戸惑う私の様子を肯定と捉えたのか、未冬ちゃんは楽しそうな口調で言った。
時岡和花
時岡和花
ち、ちがうよ!
 このままでは誤解されてしまう。私は慌てて否定するけれど、未冬ちゃんの耳には届いていないようだった。
時岡和花
時岡和花
未冬ちゃん……!
丹波未冬
丹波未冬
いいから、いいから。ほら、早く教室戻ろ!
 それ以上私が何を言っても、未冬ちゃんは「わかったから」と言って笑うだけだった。
 そのせいか、そのあとの授業中も、それから放課後教室を出てからも、何度も何度も未冬ちゃんの言葉が脳裏を過った。
丹波未冬
丹波未冬
『大切な人から、貰ったの?』
 あの未冬ちゃんの言い方じゃあ、まるで私が……暁斗君のことを――。
時岡和花
時岡和花
(ち、違う。そんなことない!)
 旧校舎の音楽室へと向かうため、古びた廊下を一人歩く。立ち止まり、ポケットの中の黒鍵をぎゅっと握りしめると手のひらに、特有の硬さや温度が伝わってくる。ポケットに入れていたからか、黒鍵からは薄らとぬくもりさえ感じられる。今までなら黒鍵に触れると、安心できた。けれど、なぜだろう。今は触れた箇所からドキドキが止まらない。指先や手のひらを伝って、まるで全身が心臓になったみたいにうるさく鳴り響いている。
時岡和花
時岡和花
(暁斗君に感謝はしているけど……)
 きっと暁斗君がいなければ、今も声は出なかったままだったと思うし、未冬ちゃんのように話しかけてくれる子もできなかった。クラスでの居場所も今もなかっただろう。でもそれだけだ。感謝しているだけ、それ以上の感情はない。そう、思っていた。
時岡和花
時岡和花
(でも、じゃあ、この心臓のうるささは一体――)
 否定してもしきれない感情に振り回されているうちに、気づけば音楽室の前までやってきていた。
 扉に手をかけようとして、その手が小さく震えていることに気づいた。呼吸も妙に浅い。緊張、しているのだろうか。
 一度二度と深呼吸を繰り返すと、私は扉を開けた。そこにはいつもと変わらない笑顔を浮かべた暁斗君の姿があった。
杉早暁斗
杉早暁斗
今日は大変だったね。あのあと大丈夫だった?
 いつもと同じ笑顔、いつもと同じ声、なのに、どうしてだろう。
時岡和花
時岡和花
(ああ、ダメだ――)
 暁斗君の姿を見たらわかってしまった。気づいてしまった。私は――。
時岡和花
時岡和花
(私は、この人が、好きなんだ)
杉早暁斗
杉早暁斗
和花?
 全身がこの人を好きだって言っている。顔も、声も、細くて白い指も、意外とがっしりとした肩も、すらっと長い足も、全部全部好きだと言っている。
時岡和花
時岡和花
(でも――)
 私に近づいてくる暁斗君の身体は薄らと透け、奥の窓が見えた。
時岡和花
時岡和花
(暁斗君は、幽霊――)
 触れることも、同じ時間を生きることもできない人を、好きになったってどうしようもないのに……。
杉早暁斗
杉早暁斗
和花? どうかした? あのあと何かあったの?
時岡和花
時岡和花
あ、えっと、ううん。大丈夫だよ
杉早暁斗
杉早暁斗
ホントに?
 心配そうに暁斗君は私の顔を覗き込む。すぐそばに暁斗君の顔がある。たったそれだけで、鼓動の音がドンドンとうるさくなっていく。
時岡和花
時岡和花
う、うん。無事黒鍵も返してもらえたし、あのあと誉田さんたちが何か言ってくることもなかったよ
杉早暁斗
杉早暁斗
そっか、ならよかった
 ふっと微笑むように口角を上げたあと、暁斗君は寂しげに眉を曇らせた。
時岡和花
時岡和花
暁斗君……?
杉早暁斗
杉早暁斗
ん? ああ、いやちょっと悔しいなって思って
時岡和花
時岡和花
悔しい……?
 暁斗君の言葉の意図がわからず、思わず聞き返す。そんな私に暁斗君は寂しげに笑った。
杉早暁斗
杉早暁斗
あんなふうに和花が困らされてるのに、僕は何もできなかったから。生きてさえいれば、あんなとき助けることができたのになって思うと、凄く悔しい
時岡和花
時岡和花
あ……
杉早暁斗
杉早暁斗
なんてね、仕方のないことなんだけど。でも自分の身体がないことを初めて悔しく思ったよ
 悲しそうに言う暁斗君に、何と言っていいかわからずただその場に立ち尽くすことしかできなかった。

プリ小説オーディオドラマ