旧校舎の廊下に立ち尽くしたまま、手のひらの黒鍵を握りしめる。未冬ちゃんに言われた言葉の意味が理解できず、ようやくわかったのはゆうに十秒は経ってからだった。
大切な人というのは、つまり、その。
必死に絞り出した私の言葉を、未冬ちゃんは笑って否定する。
今、未冬ちゃんは黒鍵の話をしていたのではないのだろうか。黒鍵をくれたのは暁斗君で、未冬ちゃんの言うことを繋げると私の好きな人が暁斗君ということになってしまう。
ちがう、そんなんじゃない。暁斗君は――。
戸惑う私の様子を肯定と捉えたのか、未冬ちゃんは楽しそうな口調で言った。
このままでは誤解されてしまう。私は慌てて否定するけれど、未冬ちゃんの耳には届いていないようだった。
それ以上私が何を言っても、未冬ちゃんは「わかったから」と言って笑うだけだった。
そのせいか、そのあとの授業中も、それから放課後教室を出てからも、何度も何度も未冬ちゃんの言葉が脳裏を過った。
あの未冬ちゃんの言い方じゃあ、まるで私が……暁斗君のことを――。
旧校舎の音楽室へと向かうため、古びた廊下を一人歩く。立ち止まり、ポケットの中の黒鍵をぎゅっと握りしめると手のひらに、特有の硬さや温度が伝わってくる。ポケットに入れていたからか、黒鍵からは薄らとぬくもりさえ感じられる。今までなら黒鍵に触れると、安心できた。けれど、なぜだろう。今は触れた箇所からドキドキが止まらない。指先や手のひらを伝って、まるで全身が心臓になったみたいにうるさく鳴り響いている。
きっと暁斗君がいなければ、今も声は出なかったままだったと思うし、未冬ちゃんのように話しかけてくれる子もできなかった。クラスでの居場所も今もなかっただろう。でもそれだけだ。感謝しているだけ、それ以上の感情はない。そう、思っていた。
否定してもしきれない感情に振り回されているうちに、気づけば音楽室の前までやってきていた。
扉に手をかけようとして、その手が小さく震えていることに気づいた。呼吸も妙に浅い。緊張、しているのだろうか。
一度二度と深呼吸を繰り返すと、私は扉を開けた。そこにはいつもと変わらない笑顔を浮かべた暁斗君の姿があった。
いつもと同じ笑顔、いつもと同じ声、なのに、どうしてだろう。
暁斗君の姿を見たらわかってしまった。気づいてしまった。私は――。
全身がこの人を好きだって言っている。顔も、声も、細くて白い指も、意外とがっしりとした肩も、すらっと長い足も、全部全部好きだと言っている。
私に近づいてくる暁斗君の身体は薄らと透け、奥の窓が見えた。
触れることも、同じ時間を生きることもできない人を、好きになったってどうしようもないのに……。
心配そうに暁斗君は私の顔を覗き込む。すぐそばに暁斗君の顔がある。たったそれだけで、鼓動の音がドンドンとうるさくなっていく。
ふっと微笑むように口角を上げたあと、暁斗君は寂しげに眉を曇らせた。
暁斗君の言葉の意図がわからず、思わず聞き返す。そんな私に暁斗君は寂しげに笑った。
悲しそうに言う暁斗君に、何と言っていいかわからずただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
















編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!