第15話

15話
2,005
2023/04/01 04:00
誉田さんが扉を開ける。その先にはいつものようにピアノの前に座る暁斗君の姿があった。
時岡和花
時岡和花
あっ……
 みんなに見られてしまう。声を上げそうになった私に、暁斗君は口元に人差し指を当てた。
杉早暁斗
杉早暁斗
静かに
 声に出さず言う暁斗君を信じて、私は口を閉じた。
誉田蝶羽
誉田蝶羽
へえ、旧校舎って言っても意外と綺麗だね
クラスメイト
えーあちこちに埃とか蜘蛛の巣あるしやだよ。早く戻ろうよ
誉田蝶羽
誉田蝶羽
時岡さん、よくこんなところで一人練習してたよね。私には無理無理
 褒めているというよりは馬鹿にしたような口調で誉田さん達は笑う。でもそんなことどうでもよかった。それよりも目の前にいる暁斗君の存在に、誉田さん達が気づかないことの方に安堵していた。どうやら私以外の人には暁斗君は見えていないようだった。
誉田蝶羽
誉田蝶羽
あ、ピアノ!
 教室の窓際に置かれたピアノを指さして、誉田さん達は嬉しそうにそちらに向かった。ピアノの前に座っていた暁斗君は少し場所を移動するけれど、もちろん誉田さん達は気づかない。
丹波未冬
丹波未冬
大丈夫だよ
 未冬ちゃんは手を握りしめたままそう言ってくれるが、私は知っていた。私が貰った黒鍵はあのピアノとは別のピアノのものだということを。けれどそれと同時に、この旧校舎の音楽室のピアノも黒鍵が一つ外れているということを――。
誉田蝶羽
誉田蝶羽
あー! 見て、これ!
 ピアノの蓋を開けた誉田さんが嬉しそうに手を叩く。何を見せようとしているかなんて、見なくてもわかった。
誉田蝶羽
誉田蝶羽
やっぱり黒鍵外れてる!
時岡和花
時岡和花
それは……! 元々外れてて……!
誉田蝶羽
誉田蝶羽
はあ? そんないいわけ通ると思ってるの? 嘘つき
時岡和花
時岡和花
ちがっ
クラスメイト
うーそつき! うーそつき!
 声を揃えて何度も何度も「うそつき」と言われると、どんどん声が出せなくなる。俯く私の視界が、だんだん涙で滲んでいく。ぽたりと床に涙がこぼれ落ちたそのとき――。
時岡和花
時岡和花
あ……
 私の手を握りしめていた未冬ちゃんの手が、そっと離れたのがわかった。
 頭の中がひんやりと冷えていく。血の気が引くとはこういうことを言うのだと、こんなときなのにやけに冷静に思うのは、むしろこんなときだからなのかもしれない。
 信じてもらえなかった、と悲しく思うのは思い上がりもいいところだと思う。信じてもらえるほどの関係を、私が築いてこなかっただけなのだから。
 溢れる涙を手のひらで拭うとなんとか顔を上げた。――その時だった。
丹波未冬
丹波未冬
ねえ、蝶羽ちゃん。私にもそれ、見せてもらっていい?
 私の隣にいたはずの未冬ちゃんは、いつの間にかピアノのそばに行くと、誉田さんに話しかけていた。誉田さんは一瞬、戸惑ったような表情を浮かべたけれど、すぐに笑って黒鍵を未冬ちゃんに手渡した
誉田蝶羽
誉田蝶羽
それ、先生に言いに行くときの証拠品になるんだから丁重に扱ってよね。壊したりなんかしないでよ。ああ、まあもうすでに壊れてたか
 キャハハと楽しげに笑う誉田さんたちを余所に、未冬ちゃんは受け取った黒鍵をマジマジと見た後、今度はピアノに視線を落とす。その姿に暁斗君は、私へと微笑みを浮かべて見せた。まるで「もう大丈夫だよ」と言わんばかりに。
誉田蝶羽
誉田蝶羽
てか、いつまで見てるの? もういい加減に――
丹波未冬
丹波未冬
やっぱり。これ、このピアノの黒鍵じゃないよ
誉田蝶羽
誉田蝶羽
は? 何を言って――
丹波未冬
丹波未冬
だって、ほら
 ほら、と言ってみせた未冬ちゃんが何かをしたようで、その瞬間ピアノの周りにいた誉田さんたちが息を呑んだのがわかった。
 私の位置からでは一体何が起きたのかわからない。そんな私を、暁斗君が手招きしてみせる。同じく、私が蚊帳の外になっているのに気づいた未冬ちゃんが私を呼んだ。
丹波未冬
丹波未冬
和花ちゃんの言うとおり、このピアノの黒鍵じゃなかったよ
時岡和花
時岡和花
え……?
 みんなの視線の先を追いかけると、鍵盤には一つだけ、ほんの僅かにだけどサイズが合わず浮き上がった状態の黒鍵があった。
誉田蝶羽
誉田蝶羽
な、なんで……
丹波未冬
丹波未冬
黒鍵や白鍵ってね、メーカーによっても少しずつサイズが違うの。だからこうやって外れたところに当て込んで、上手くはまらないってことはこのピアノの黒鍵じゃないってことだよ
誉田蝶羽
誉田蝶羽
っ~~!
丹波未冬
丹波未冬
ね、これ。和花ちゃんに返してもいいよね?
 悔しそうに睨みつける誉田さんに、未冬ちゃんは笑顔で尋ねる。
誉田蝶羽
誉田蝶羽
……好きにしたらいいでしょ
丹波未冬
丹波未冬
うん、好きにするね。はい、和花ちゃん。大事な物、なんでしょ
時岡和花
時岡和花
あ……。ありが、とう……
丹波未冬
丹波未冬
あ、それから
 未冬ちゃんは振り返ると、いつの間にか音楽室を出て行こうとしていた誉田さんに言った。
丹波未冬
丹波未冬
出て行く前に、和花ちゃんに謝ろうね
誉田蝶羽
誉田蝶羽
~~ごめんね! これでいいでしょ!
クラスメイト
あ、待ってよ。蝶羽ちゃん!
 投げ捨てるように謝ると、誉田さんは音楽室を飛び出して行く。そのあとを慌てて他の子達が追いかけて行く。
丹波未冬
丹波未冬
謝るって態度じゃないけど、まあ謝っただけ偉いかなぁ
時岡和花
時岡和花
未冬ちゃん……あの……
丹波未冬
丹波未冬
あ、誤解解けてよかったねー!
時岡和花
時岡和花
う、うん。ありがとう。でも、黒鍵の長さなんてよく気づいたね
 私は手渡された黒鍵を見ながら、目の前のピアノの黒鍵と見比べる。けれど、それらの差は全くわからない。
丹波未冬
丹波未冬
材質がね、全然違うの
時岡和花
時岡和花
材質?
丹波未冬
丹波未冬
うん、これこんなところに置かれてるけれど、すっごくいいピアノなの。それに比べると、こんな言い方すると気を悪くするかもしれないけれど、和花ちゃんの持ってる黒鍵はもう少し安いピアノになると思うんだ。だから、その黒鍵が、このピアノに使われている訳なんてないと思って
時岡和花
時岡和花
そう、なんだ
 材質の差、なんて私にはまったくわからないけれど、現に目の前のピアノにこの黒鍵は入らなかった。
 そういえば――。
杉早暁斗
杉早暁斗
『このピアノは少し特殊だから、その黒鍵をはめることはできないんだ』
 暁斗君がそう言っていたのを思いだした。
時岡和花
時岡和花
(そっか、だから暁斗君はあの時もう大丈夫って顔をしていたんだ)
 思わずすぐそばにいる暁斗君の方を見ると、ニッコリ笑って頷いていた。
時岡和花
時岡和花
未冬ちゃん、ピアノに詳しいんだね
丹波未冬
丹波未冬
母がピアノの先生をやってるの。その影響で小さい頃から弾いてるんだ。あ、でも内緒だよ。バレたら伴奏頼まれちゃうから
時岡和花
時岡和花
頼まれると嫌なの?
丹波未冬
丹波未冬
んー、いいんだけど私歌う方が好きだからさ
 たしかにそれだとバレたときに断るのが面倒かもしれない。
時岡和花
時岡和花
黙っておくよ
丹波未冬
丹波未冬
ありがと
 遠くで休み時間の終わりを知らせるチャイムが鳴り始めた。そろそろ戻らなくてはまずい。
 私たちは慌てて音楽室をあとにしようとして――扉を閉める寸前、もう一度中を覗き込んだ。こちらを見ていた暁斗君は私に手を振った。
杉早暁斗
杉早暁斗
また放課後に
 そんな暁斗君に頷くと、先に廊下を歩いていた未冬ちゃんを追いかける。
丹波未冬
丹波未冬
それ、さ
時岡和花
時岡和花
え?
 隣に並んだ私に、未冬ちゃんは黒鍵を握りしめた私の手を指さして言う。
丹波未冬
丹波未冬
さっきも言ったけど和花ちゃんにとってすっごく大切なものなんだね
時岡和花
時岡和花
……うん
 頷いた私に、未冬ちゃんは微笑むと目を輝かせて言った。
丹波未冬
丹波未冬
大切な人から、貰ったの?
時岡和花
時岡和花
……え?
 その言葉に、私は思わず足を止めてしまっていた。

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