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第1話

余命宣告
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2019/12/01 03:59
吸い込んだ空気から臭うのは、薬剤と、病院独特の匂い。もう、街の匂いなんて思い出せないから、病院以外の匂いがわからないけれど。多分、ジャンクフードの油っぽい匂いや人の体臭なんかで、大まかにいえば人工的な匂いなんだったような気がする。
最後に街に赴いたのは、二年近く前。梨緒とお揃いの服を買ったお店は今どんな服が入荷しているんだろう。ちょっと年季の入ったカフェはまだあるだろうか。病院の外の知りたいことは沢山ある。もっと、もっと色々なことを知りたい。行ったことがない場所に行って、沢山写真を撮って、旅行の感想を書くブログなんかを作ったりもしてみたい。
やりたいことも沢山あるのに。また、スタジアムに行きたい。大好きなサッカーチームの応援に行きたい。前みたいに声を出して騒ぎたい。知らない人とも仲良くなれるあの場所に行きたい。
自殺しようとしていた私が無理やり連れ出されて、連れていかれたスタジアム。そこで繰り広げられる、全力と全力のぶつかり合う光景に胸を打たれて、私は生きることを決めた。その光景が、とても格好よく、強くて美しくて、人間が持っている素敵な部分だけを映し出しているように見えたから。そうやって、私の命を救ってくれたあの場所で働いて、生涯を捧げるって決めたのに。
それなのに、私の担当医、佐野先生が告げたのは、私の余命が一年半だということだった。いつもみたいに、黒縁の眼鏡の奥から覗く、感情のなさそうな目で私を見ながら、静かに告げた。
私の診断された病気は硝子性欠陥症。人の記憶は、硝子のように一枚で纏められていて、それが何枚も何枚も連なって、生涯の思い出として記憶になる。硝子性欠陥症は、その記憶が、まるで硝子が割れるが如く、一部分が欠陥して、更に進行すると時間軸が分からなくなり、断片的にしか物事を思い出せなくなってしまうという。記憶はできても、時間が経てば忘れていく。今はまだ、過去の記憶が薄れていくだけ、つまり普通の人と同じ。だけれども、これから少しずつ記憶がなくなるのだと、佐野先生は告げた。
記憶の構成が判明したのも数年前で、それが硝子のようだとされたのはそれより後。硝子性欠陥症が解明されたのはそれの更に後。特効薬なんてものは存在しないし、硝子性欠陥症を患っている人は数少なく、データが圧倒的に足りない。そのため、今は不治の病とされている。これが発祥する理由もわからないままで、記憶障害の一部だと位置づけられているらしい。
佐野先生が硝子性欠陥症のことに詳しいのは、娘さんがそうだったから。娘さんが患っていた時は、病名でさえも付けられておらず、それこそ記憶障害として処理されたと言う。症例が判明してきた今でこそ、娘さんの病気が硝子性欠陥症だったとわかったのだが、それが今更判明したところでどうともならない。そう言った佐野先生の顔はいつも通りの無表情に見えたけど、今思い返せば悔しそうな顔にも見えた。
利根川夕陽
利根川夕陽
(お医者さんだもんね、悔しいよね)
いつも真顔で、怖い印象がある佐野先生だけど、あの時は慰めたいような気持ちになった。そして佐野先生は、硝子性欠陥症が他の記憶障害と異なるのは、記憶は忘れてしまうがそれには時間的猶予があること。話をするには十分な記憶は保たれること。時間が経つにつれ、のんらかの障害が原因で臓器の機能が低下すること。それに伴う痛みが発祥すること。そして、あまりにもデータが少ないがために、病院から出ることを許されていないということを教えてくれた。
利根川夕陽
利根川夕陽
(先生は、患者にしっかり情報を伝える義務があると思うんだけどなぁ)
症状とかは教えてくれたんだから、きっといつか教えてくれると信じるしかない。
私の病棟は一般病棟。伝染性の病気でもないらしいから、一般病棟に入れてもらっている。病態が悪化したら、まずはHCU、高度治療室に入れられる。そこで済めばそのまま特別病棟へ行けるけど、そこから更に悪化したら、ICU、集中治療室に入れられる。そして、特別病棟へ。特別病棟は隔離されているから、もう一般病棟へは戻れないし、私の自由はさらに制限されることになる。
受験なんて、勿論出来るはずもない。大学になんて行けないんだから。梨緒や皆と同じ未来は歩めない。あぁ嫌だ、泣きそう。まだ、まだよ夕陽。自分に何度も言い聞かせた。私の病室は二階の中央階段から右に三つ目の部屋。あともう少しなんだから、部屋に入ってべっどによこになってからじゃないと。誰かが来た時に寝たふりができるように、泣く時はベッドで横になった時だけ、と決めている。それでも、涙のあとでバレそうだけど、上手く布団で隠せばどうにかなる。
利根川夕陽
利根川夕陽
(一人部屋なの助かるなぁ)
本当は共同なんだけど。私の病気が不治の病で、年頃で不安定で、さらに大きな病院なのに患者がそう多くないと来て、部屋が割と空いていることも影響して、私は一人部屋を使わせてもらっている。こんな時に共同だったら泣けない。人前で泣くのはどうも躊躇われる。それが家族の前だったとしても。だから、ここで泣くわけにはいかない。そう思って、必死に涙を堪えながら階段を上った。

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